基本情報
◆Morten Harket
◆1959年9月14日、ノルウェー、Kongsberg生まれ
◆家族は、外科医長の父親Reidar、家政学教師の母親Henny、長男Gunvald、三男Håkon、四男Kjetil、妹のIngunn(※職業は1985年当時)
◆身長は182センチ
◆目の色はブルー
◆髪の色はダーク・ブラウン
◆お気に入りの作家はKnut Hamsun(※1985年回答)
◆お気に入りの映画はParis, Texas(※1985年回答)
◆学生時代のお気に入りの教科は生物学と植物学(※1985年回答)
◆お気に入りの食べ物は「まだママの料理」(※1985年回答)
◆趣味は蘭の栽培(※1985年回答)
◆こちらによると、サッカーのチェルシーFCのファンらしい
◆1989年2月11日にスウェーデン人の女優、Camilla Malmquist(1963年10月3日生まれ、1980年にスウェーデンのTVドラマ『Lycka till』にEva Björklind役、1988年にスウェーデンのTVドラマ『Xerxes』にJenny役で出演)と結婚するが、1998年5月に離婚*
◆Anne Mette Undlien(2000年1月の時点で31歳)とは1999年以前から付き合っていると言われ、Frognerにあるモートンのアパートで一緒に暮らし、その後、娘が生まれフールムに転居していたが、2004年末に別居
◆子どもはCamilla Malmquistとの間に息子2人と娘1人、1989年5月14日生まれのJacob Oscar Martinius、1990年12月30日生まれのJonathan Henning Adler、1993年4月14日生まれのAnna Katharina Tomine、Anne Mette Undlienとの間に娘1人、2003年2月6日生まれのHenny
◆10年間ロンドンに住んでいたが、1995年にノルウェーに引っ越す
◆映画『Kamilla Og Tyven(カミーラと泥棒)』(1988年)、『Kamilla Og Tyven II』(1989年)でChristoffer役を演じ、俳優を経験。また『Kamilla Og Tyven II』には弟のKjetilも出演している
*モートンとカミーラの離婚が決定的に <VG 13/05/98> (訳:Mayumi)
子ども時代
◆両親はクリスチャンで、モートンも宗教的な影響の下で大きくなった。
◆3歳の時、Kongsbergで初めての大きな音楽的経験をする。ローカルバンドの演奏に感激したモートンを、指揮者は肩に乗せて、バンドを指揮した。
◆5歳の時にAskerのHeggedalに引っ越すが、すぐにまた同じ郡のGullhellaに引っ越す。
◆父親は音楽的才能があり、モートンが子どもの頃からピアノのレッスンを受けさせていた。しかし押しつけのレッスンが嫌いで、練習はほとんどせずに、自由に弾いていた。
◆小学校時代、現実と空想の区別がつかないことがあった。モートンにとって、自分の話が本当か作り事かは、そんなに大事なことではなかった。例えば7歳の時、森で投げ縄を使って大鹿を捕まえたと話したが、誰も信じてくれなかった。そればかりか、その話を証明してみろと毎日友だちに追い詰められた。
◆いじめられ、特に3、4、5年生の時はひどかった。時には泥だらけになり、泣きながら家に帰ることもあった。
◆いじめられた経験がモートンを強くし、群れることを嫌わせた。
◆中学に入り、クリスチャンのクラブに入り、モートンをいじめない新しい友人ができた。彼らはモートンの話を熱心に聞き、穏やかに笑った。モートンは人とうまくやる自信がついた。
◆絵が上手いことを認められたことで、モートンは自分の能力を内から外へと向けられるようになった。グループの中心人物、ある意味リーダーとなり、自信が花開いた。
◆蝶の収集や蘭の栽培が好きだった。
◆クラシックを聞いて育ち、ジョニー・キャッシュの熱狂的ファンで、ロックは大嫌いだった。しかし高校に入り、兄が家に持ってきたユライヤ・ヒープを聞いてから、完ぺきなまでに音楽の趣味が転向する。
◆ユライヤ・ヒープのレコードを集め、Håkonとバンドを作り、自分がどこにいるのかも忘れるほどに何時間も歌い続けた。
◆高校時代のニックネームは「Hakkbspetta」
※参考『Så blåser det på jorden』『Boken om A-ha』他
a-ha結成前
◆モートンは隣に住んでいて、Heggedalの小学校で同級だった、Arild Fetveitとよく遊ぶようになったが、Arildにとって音楽と言えばブルースで、全くロックを理解出来なかった。モートンが前にいたバンドのピアニストのために、自分は弾きもしないオルガンを2万クローネも出して買った、という話を聞いたArildは、ベースプレイヤーが必要になった時に、Bondi Sykehjemの地下室でまだバンド活動をしているモートンを思い出した。モートンがRickenbacker社のベースを持っていると聞いたArildは、モートンをジャム・セッションに招待した。シンプルなブルースのリズムをモートンに聞かせると、モートンはリフ(ジャズ音楽の反復楽節)で返した。それはとても素晴らしかったが、ブルースには無用だったので、コーラを渡し、来てくれたことに感謝をして、バイバイした。
◆Arildとの出会いは、後にモートンの音楽的発達にとても重要な役割を果たした。ブルースを知っただけではなく、いかに音楽が人を感動させるかを思い出させた。Arildのレコードコレクション、特にオーティス・ラッシュや悲劇的なブルースが、モートンの心を捕らえた。
夕方になるとArildとモートンはオスロにくり出し、クラブ・シーンでは何が起こっているかを見ていた。Chipahua with Sidsel Endresenがどこで演奏していても毎回、2人はミネラル・ウォーターを飲みながら、3番目のテーブルに座っていた。Club 7のライブの後、モートンはバンドのところに行き、歌い手に話しかけた。彼女は迷惑そうにして、神経質に笑いかけると、モートンはいつか同じステージに立ちましょうと彼女に誓った。Arildでさえ、モートンはやりすぎだと思った。
帰り道、良い気分になったモートンはダッシュボードを叩き始めた。その完ぺきなリズム感覚に、Arildは打ちのめされた。ドラムの才能があると思ったが、モートンは拒否し、ボーカルを望んだ。自分の才能を生かさないなんて何て頑固者だ、とArildは思った。
◆1980年、モートンは軍隊に入った。(※ノルウェーには兵役制度があります)Arildとは良い友人となり、モートンが週末に家に戻るときは、相変わらずオスロで一緒に過ごしていた。
◆ある秋、クリスチャン青年聖歌隊だったモートンは、Ostenstad教会であるミュージカル「Vitnet(目撃者)」に参加しないかと声をかけられた。Arildは教会へ何年も足を運んでいなかったが、モートンの歌を聞くために初日にやって来た。今までは話や、リズミカルなうなり声、奇妙な遠ぼえぐらいしか聞いたことがなかったのだ。
ユダ役のモートンの出番は5分程であったが、すっかりショーを持っていった。Arildは有頂天になった。モートンのパフォーマンス、演劇的なセンス…ステージでモートンは本当に心地よさそうだった。
クリスマス前に「Vitnet(目撃者)」は、イギリスのアーティスト、Bryn Haworthのライブと共に、Neuf城で上演する機会を得た。しかし風邪をひいたモートンは喉が痛くて、声が出るか心配だった。ユダは最後の晩餐の後に出ることになっていたが、モートンは忘れてしまい、合図を逃してしまった。しかしHaworthとショービジネスについて話すことが出来た。
◆ArildとブルースギタリストEspen Farstadは、その冬に新しいバンドを始めた。Arildはモートンを仲間にしようとしたが、Espenは別のシンガーに興味があったので、モートンは歌の競争で勝たなければならなかった。以前にも別のバンドでしたことがあるので、競争はこれで2回目だった。
高いキーで声がうわずってしまったが、モートンはボーカリストの職を得た。モートンは曲を極端に高いキーにしようとするので、バンドメンバーはもっと普通のキーまで下げようとしたが、そうするとモートンは歌わなかった。この議論は、モートンが「Souldier Blue」というバンドにいる間、ずっと続いた。
初め、モートンはバンド内で異端の存在で、メンバーの誰もがブルースを歌えるとは思っていなかった。しかし初めてのショーの後、Askimの地方紙に取り上げられたことで、全てが変わった。
◆その後の数ヶ月、Souldier Blueは順調だった。毎週末、オスロのどこかのクラブでモートンの声が聞けた。モートンはボーカリストとして様々なことを学び成長した。しかしオスロのブルースミュージシャンの間では、モートンのシンガーとしてのスキルについて、意見がまっぷたつに分かれた。
Arildは、モートンが普通のボーカリストとは違っていたと語っている。モートンは誰もが期待するような「ブラック」風に歌わなかった。自分独自の声を手放さなかった。ゴスペル・シンガーのように歌うことも出来たが、それをしなかったため、多くのミュージシャンはモートンの才能に気付かなかったのだ。モートンは素晴らしいファルセット(裏声)を持っていた。
◆Souldier Blueはクラブバンドで、それ以上でもそれ以下でもなかった。レパートリーは20年前の曲、フィーリングとソウルを伝えるのが彼らの仕事だった。1年が過ぎ、Tromso、Bergen、Tronheimのクラブでのプレイも経験し、彼らはゴールが近付いていると感じた。モートンにとって重要なことは、ステージ上で自分を解放することで、ダンスフロアからの称賛の声にエクスタシーを感じていた。
ナイトクラブはモートンの活躍の場ではなかった、とArildは語る。モートンはとても遠慮がちで、自分がどんな風に立っているかを過度に気にした。しかしダンスフロアがいっぱいになると、それに励まされ、破れたTシャツやジーンズでモートンはステージに立った。モートンの理想は、ステージに立ち、フルでスポットライトを浴び、マイクと満員の客からの注目を浴びて、5分間神になることだ、とArildは語っている。
◆モートンとArildが、たまたまオスロにSidsel Endresenを聴きに行った時、ショーの後、2人はノルウェーの音楽連盟のB級名士たちとパーティで一緒になった。議論はいかに激しくブルースを歌うかであった。ある有名なノルウェーのブルース・シンガーは、白人には歌えない、10年も挑戦している、と言った。モートンはそれに反論して、6、7ヶ月もあれば自分は歌えると言った。女性は怒って、私をからかっているのね、と騒ぎ始めた。
◆しかしモートンには別の目標もあった、3フル・オクターブとフォルセットだ。ある朝、ギグの後にArildが電話をすると、モートンは自分の声と戦っていた。Arildが自分の名前を告げるより先に、モートンはlow Bに達したと言った、普通はDかCだ。目標を達成することが、モートンにとってとても重要だった。
◆同時期に、バンドはバラバラになっていった。モートンはソウルをプレイしたかったし、Espenはブルースを望んだ。モートンは先へ進まなければならなかった。
※参考『Så blåser det på jorden』『Boken om A-ha』他
a-ha結成
◆1982年の秋にオスロのいくつかのクラブに出入りしていれば、遅かれ早かれSouldier Blueを聞くことになったろう。そして注意深く観客を見れば、いつもステージ近くのテーブルに座り、熱心に聞いている2人の若者(ポールとマグス)を見付けることが出来たろう。2人はロンドンでの6ヶ月の滞在から、失望によって出来た心の傷を癒すため、泣く泣く帰ってきたのだ。
◆2人は初めてロンドンに行く時、モートンを誘った。モートンはマグスの家の地下室にマイクを置き、一緒に行くかどうかの気持ちが決まったら取りに来る、と告げた。しかしそれはモートンのマイクではなかったので、本当の持ち主が来て持って帰ってしまった。これは手違いだったのだが、マグスとポールはひどく失礼な断り方だと思い、その後モートンに連絡を取ることなく、ロンドンに出発してしまったのだ。
しかし、ついにモートンは2人の申し出にOKし、後にa-haと呼ばれるバンドが誕生した。
最初、モートンは少し自信がなかった。ポールとマグスの才能や可能性を疑うことはなかったし、ずっと2人の曲を歌いたいと思っていた。しかしすぐにロンドンに行こうと誘われた時、既に旧友Arildとギリシャのグリーン・ベイに遊びに行く約束をしていたのだ。その時は、ダーク・アイでオリーブ色の肌をしたギリシャ美人の方が、薄汚い町で2人の青白い文無しのミュージシャンといるよりもずっと誘惑的だった。さらに、モートンは自分の年齢を気にし始めていた。23歳で、教育、仕事、安定した仕事への足がかりもまだなかった。多分、落ち着いて、時々趣味としてミュージシャンをする時期なのでは?しかしロンドンへの誘いは、モートンの気持ちをはげしく揺さぶり、マグスに申し出について考えてみる、と伝えたのだった。
1982年の9月14日、モートンの誕生日に、ポールとマグスはモートンの誕生日を祝うため、ハルケット一家の元にやって来た。そして、新しいシンガーを歓迎した。
◆バンドに持っているものの全てを注ぎ込んだ。最初のロンドンでの失敗を繰り返さないためには、良いデモテープが必要だという結論に達した。しかしロンドンへ行く前に高いスタジオを借りて、なけなしのお金を使ってしまうのは、良い考えとは言えない。自分たちが今持っているもので、何とかしなくてはならない。
レコーディングの場所はすぐに見付かった。ポールの両親がDrammenから遠くないNærsnesの森に小さな小屋を買っていた。そこに3人は家とスタジオを準備した。モートンが古い4トラックTeac(※レコーディング用の機械?)を持ち込み、マグスはどうにかしてジュピター・シンセサイザーを借りてきた。これ以外は、ポールのギター・シンセサイザーといくつかのアコースティック・ギターだけだった。ドラムはDr. Rhythmというドラム・マシーンに任せた−唯一の利点は、本物のドラマーよりも食費が安上がりということだけだったが。
こうして録音された歌は、以前ポール、マグスそしてモートンがやっていたものとは異なっていた。キャッチーなメロディーで親しみやすく、しかし独創的な歌詞を持った純粋なポップス。Bridgesの混沌としたミニ・シンフォニーと詞は姿を消し、モートンのソウル・サウンドももうなかった。この新しいミュージックを直感的にお互いに見つけだした3人の喜びは、デモ・テープに素晴らしい力を与えた。ポール、マグス、モートンが一緒に作った曲は、予言的なタイトルの『Så blåser det på jorden(※だから地球に風は吹く)』である。
◆3人はとても上手くやっていたが、実世界に向き合わなければならない時、意欲的な音楽のアイデアはひどく妥協されていた。ある日、ポールとモートンが『Presenting Lily Mars』という悲劇的なバラードに取り組んでいた時、ポールは突然素晴らしいアレンジを思いついた。モートンがバイオリン奏者を探しに出掛けている間、ポールは熱心に自分のアイデアを紙に書き留めた。ところがモートンが連れてきたアマチュア・ミュージシャンたちは、ポールのなぐり書きを何も理解することが出来なかった。バイオリンは酢のように酸っぱい音を奏でた。ポールは自分の美しいアレンジが全く理解されないのを見て、すっかり落ち込み、部屋の隅に引きこもった。しかしモートンは方法を見付けた。自分の耳と感覚を使って、バイオリン奏者たちの正しい右の指ポジションをみつけ、フェルトペンで印をつけたのだ。もしこれで上手く出来なかったら、指を印に糊付けしてしまうぞ、とまでミュージシャンたちは言われた。それは悪ふざけだったが。
◆秋、a-haというグループ名が決まった。3人は誰もが簡単に分かってくれる国際的な名前が欲しかった。モートンがahaというまで、全く良い名前を思いつかなかった。モートンはポールのノートでこの言葉を見付け、バンド名に提案した。実際、これは歌詞の1部だったのだが、これは誰もが探していた名前だった。それでahaと決めた、発音問題の心配から、最終的な書き方は後で決めた。「モートンが僕のノートをあさっていたとは知らなかったな」ポールは名前の選択について、こんなドライなコメントをしている。
◆ロンドンへの旅費をかき集めるため、マグスは既に学校で働いていた。Heggedal小学校で代用教員をし、Drammenの学校では木工を教えた。モートンはDikemark病院で看護人としてシフト制で働いた。一方、ポールは自分の音楽と本に没頭し、Nærsnesの森の小屋でほとんど世捨て人のような生活をしていた。どんな家事1つするのも嫌悪した。もしあなたがそこで1杯のミルクを飲んだなら、1週間後に戻って来たとき、それは手つかずのまま置いてあったろう。皿を洗うことが絶対的に必要なことではないのに、何故洗うのか?
◆旅立ちの時が来た。8つの曲が最終的にレコーディングされていた。その中の1つは『Lesson One』で、3年後には『Take on Me』で世界中のチャートでトップとなる曲だった。
※参考『Så blåser det på jorden』『Boken om A-ha』他
