歩く亡霊(モートンへのロングインタビュー) <Dagbladet 2008>
5月5日付Dagbladet.no Text: Ingvild Wedaa Tennfjord Translation by Locust/a-ha fan café
訳:Mayumi
モートン・ハルケット(48)を理解するためには、まず、モートンが実際には存在していないことを理解しなければならない。
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三位一体:1986年に、ポール、マグネ、モートンは、ポップス界で頂点を極めた。オックスフォードストリートでのサイン会。モートンは世界中のジーンズを穴だらけにした張本人だった。
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熱狂:a-haは世界中をツアーした。カリフォルニアのプールサイドにて白い水着姿でリラックスするモートン。
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ノーベルアート:アニー・レノックス、ケヴィン・スペイシーと共に。モートンは、2007年度ノーベルコンサートのメインアトラクションの一人だった。
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元同居人と:2003年、モートンはアン・メッテ・ウンドリエンとの間に4番目の子ども、ヘニーをもうけた。その翌年に、ノルディック・ミュージック・アワードの会場へ向かう二人。
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家族:モートンとカミーラは、1989年に結婚し、結婚生活は9年間続いた。二人の間には3人の子どもがいる。写真は、ヤーコブ、ヨナタンと一緒のもの。この翌年、トミーネを授かった。
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80年代には、誰もがモートンと関係を持っていた。何人かの人間は、『Take On Me』をほかの人より文字通りに解釈していたが、ヘルメットをかぶったバイカーたちの助けにならなかったようだ。
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慈善事業家:僕は、自分で使いきれないくらい持っている。とモートンは語る。1996年、TV3の文化的な番組「Safari」の一環で、グアテマラを訪れた。
モートンについて:
誕生日:1959年9月14日
家族:離婚暦あり、4人の子どもがいる
10年後:VGとDagbladetが合体した『Gangbladet』を読み、"Bergenmasturbator"との噂は、モートンが常に酔っ払っていて、マスターベーションすらできない状態なので、もう使えないという記事を読む。
これには怒るということ:前の質問の答えを見てね。
もっとも価値があること:メディアの批評
最悪のこと:これがまったく的を得てないということを学ばないこと
恐れていること:集団ヒステリー
子供時代になりたかったもの:ターザン
もっとも安心できる場所(Best Net Place):蝶の網の中
最近買った洋服(Clothes):僕の葬式用の麻布(Linen cloth)
忘れられない本:"Mengele Zoo" Gert Nygårdshaug著 テーマが忘れられないものだった。
尊敬する人:祖父母
好きな番組:A minutes silence
知りたいこと:実際に群集とは存在するのか?
存在するかどうかという質問は、ちょっと早かったようです。でもこんな風に答えてくれました。モートンは、これ以上くだらないことに答えたくなかったようです。
「このお皿は存在していますか?」
「僕らが思っているようには存在してないよ」
「でも触って感じることはできますよね」
「それじゃ、僕から質問するよ:ドナルド・ダックは存在しているか?存在しないと答える人もいるだろう。しかし、君はドナルドの彼女が誰かということも知っているよね?ドナルドは僕たちの意識下に存在しているんだ。この皿も僕と君の意識下に存在している。でも現実に存在しているかどうかというと、それは個別に存在しているんだ」
「どういうことなんでしょう?」
「精神的な面という意味かな?この世はすべて、精神によって構成されているんだ」
「精神によってというと?」
「世界は、明らかに無から始まったんだ。宇宙の外には何もない。中身だけだ。僕らが住むシャボン玉の中は、何もないところから始まった。何にも存在しないところからね。無は存在すべてよりも大きいという理屈になる」
モートンのこの考えが初めて公共電波で伝えられたのは、 トロンハイムの記者会見の時でした。その後、あまりふれられてこなかったこの話題に、レポーターは再び挑みます。
「でもRBKについてはどうでしょう?ローゼンボルグは好きですか?」
翌日の新聞には、モートンは、すべては藁にしかすぎないと語った、と見出しが出ました。
「母国では、これについて真剣に話し合える場はないんだ」
「どんなことについて話し合いたいのですか?」
「語るべきことは、僕らが理解しているつもりの現実とは何を基盤にしているのかということだよ。存在しているとはどういうことなのか」
霧の王様などというニックネームが広まるゆえんです。
「霧の王様以上に僕がなりたい役もないよ。僕にはぴったりな役だよ」
「それがクビを絞めるようなことになってもですか?」
「それで打撃を受けたことはないな。今まで誰も僕を有効なやり方で捕まえることなんてできなかったね」
3分40秒。 『Take On Me』の長さです。1985年にアメリカでトップに輝きました。ノルウェー出身のグループとしては初の快挙でした。突然、すべてが可能になったのです。世界制服も夢ではありませんでした。ノルウェーは沸きかえりましたが、モートンは冷静なままでした。モートンには、17歳からそうなることがわかっていたということです。
「どうしてわかったのか、わからないよ。だけど、それを疑ったことは無かった。ちょっと酔いしれてたのかもしれないけど、音楽を通じて世界に出て行かれると思っていた」
「あなたが本当は『Take On Me』を気に入っていないというのは本当ですか?」
「違うよ、だけど、他のバージョンだったらと思うことがある」
「弦楽器等を使うとか?」
「弦楽器じゃなくて…もっと活気があるバージョン」
「活気ですか?」
「もっと伸びやかで、同時に明るい軽快さもあるような。あの曲はちょっとシンセのストリングスの音のイメージばかりで。でも『Take On Me』には異論はないよ。ヒットしたんだし!」
「あなたの目的は、世界的に有名になることだったのでしょうか?」
「それは、目的じゃないよ。ただそういうものだったということだよ」
「あなたが声を大にして言いたいことだったのでしょうか?」
「時々ね」
「それは、他の子供たちに殴られていたからなんでしょうか?」
「いや、これは、青春時代の話だよ。まだ覚えているんだ。すごく音楽的に高まる経験をしたんだ」
「自分で書いた曲ですか、それとも他の人の曲ですか?」
「いや、まだ一度も聴いたことが無い音楽だった。何時間にもわたって聞こえてきた。精神的に入り込んできたという感じだった。音楽は、まだ出来上がっていなかった。そして、その後もできなかった。なぜなら、それを引き出す正しい道具を持ってなかったからね。まだ誰の手によって書かれたものではなかった」
「音符を書くことを学んでいたらよかったですね」
「音符は、僕には意味をなさないものなんだ」
モートンの両親は、気をつけて励ましてあげないといけない子供だと理解することになります。 2歳の時、バンドが演奏する音楽を聴いて興奮しておもらしをしてしまったモートン。ピアノに向かって鍵盤を小さな指で鳴らしました。4歳か5歳のころになると、まるで翼を得たかのような気分でした。車の中のバックシートで、"Kom mai, du skjønne, milde"を歌いました。しかし、ピアノの先生がやってきたとたん、すべてが壊れてしまったのです。
「あのきらめきは燃え尽きてしまった。すぐに冷え切った暗い場所へもぐりこんでしまったんだ」
「なぜですか?」
「僕は教えられたく無かった。体験したかったんだ」
レストランのメニューには、小麦かじゃがいもが入った料理しかありませんでした。 ハルケットが、スペルトかライ麦のメニューはあるかと訊くと、ウェイターは、まるで精神論でも語るかのように答えました。グルテンフリーのものはありましたが、食べたいと思うような代物ではありませんでした。
「グルテンフリーは、病院食だね、美味しくはない。だからスペルト小麦を勧めるんだ。僕は、根菜と、コーラを頼むことにするよ。普通にね」
ウェイターは、緊張した面持ちで、奥へ入っていきました。根菜があるかどうかもわからなかったようです。
「小麦は食べないのに、コーラは大丈夫だと言えるんですか?」
「言えないよ。砂糖の摂取にも気をつけるべきだよね。だけど、小麦はもっと悪いんだ」
「コーラは、とても美味しい…」
「僕は ダイエットにあまりにも忠実な生活をしたいとは思わない。ケーキがあれば食べるよ。だけど、今日まで小麦がしてきたことを考えるとね。頭をぼーっとさせるし、太ってしまう。栄養士たちは、小麦もスペルトと同じように体に良いと言う。だけど、それが正しいとは思えないんだ。それは、スペルト小麦の質が落ちてきていることからも言える」
「どうしてですか?」
「要望が高いのにあまりにも生産量が少ないんだ。それで、スペルトの質が落ちてしまった。いずれ改善されることを願ってるよ。」
「Peppesのピザがスペルト小麦でできたピザ生地を使っていることは悪い兆候ですか?」
「良い面と悪い面と両方さ。僕がスペルトダイエットを始めたころより品質が下がっている。環境に良いスペルト以外はね」
13年前、 モートンは、三位一体から初めて離れ、ソロアルバム『Wild Seed』をリリースしました。満足な出来上がりでした。批評家も気に入ったようです。次のソロアルバムまでにこれほど時間が空くことになると予想する人はいませんでした。
「あれから妙に時間がたってしまったね。変だよね」モートンは考え深げに答えました。
確かに奇妙です。モートンは現在48歳です。しかし、彼の肉体は、歳を重ねることと、若い女性のアイドルでいられなくなることを拒絶しているように見えます。時間がそこで止まってしまったという感じすらします。40代の多くの男性がそうであるように、モートンの耳の前には小じわがありますし、顔に刻まれたしわも深くなっています。それでも、1986年にブレスレットを巻きつけ、歌っていた彼の姿がいまだに表に浮かび上がってくるのです。
「アルバムが市場にでることは怖くありませんか?」
「こういう時に心配になることってあるんだろうね。僕はそうはならないんだ。確かに恐怖はそこにあるね。だけど、長いことそうやって気にしていてもしょうがない。恐れていてもどうにもならないんだしね」
「そういう感情を閉ざしてしまうのですか?」
「僕はそいつの目をまっすぐに見つめるんだ」
「"恐怖"の目ですか?」
「そう。そうすれば消え去る。問いかけるんだ。これは合理的なものか?違う。それに対して何かできるのか?できない。音楽との出会いは、自由きままに、突然出会うものだよ。他の人たちの感情をコントロールすることはできない。僕がいったん手放したら、自分の脚でしっかり立たなければならないんだ」
「批評家たちは、ナイフを研いで待ち構えているんでしょうか、それとも両腕を広げて迎え入れてくれているんでしょうか?」
「両方だと思うよ。間違いなく、彼らとってはいらいらする面もあると思う。僕はこの仕事を長年やっているからね。まったく、他にいないのか?と思うだろうね。でもそれに耐えてもらわないとね」
モートンは、ファルセットヴォイスで有名ですが、 ソングライターとしても有名になりたいと思っているのでしょうか。a-haが復活した後でも、メインのソングライターはポールとマグネです。
「『Wild Seed』は、ソングライターに出世したターニングポイントといえますか?」
「それ以上のものがあるよ。君が言っているのは(ソングライターとしても)世間に認められたということだよね。だけど、あのレコードは、僕自身へソングライターであるということに気づかせてくれた。音楽の世界で自分の居場所、アーティストとしての自分を発見できたんだ。そういうのってなんていうんだっけ?」
「アートと呼んでもいいのですか?」
「呼んでもいいよ。アートとは、自分に対して表現することだよ。自分の気づかなかった一面を知ることができる。音楽でそれができるのなら、それはアートだ。だけど、純粋なエンターテイメントになることもできるね」
「あなたの中でアートの部分はどれくらいなのでしょう?」
「いや…もし僕がこれをエンターテイメントとしてやっているだけだったら、とっくに辞めていたよ」
「それでは、a-haがラスべガスのショーで演奏することはありえないんですね?」
「僕ら自身でいられるんだったら、ありえるよ」
「惹きつけて止まない魅力的な音楽を作る、というのがモートンの望みです。「惹きつけて止まない魅力」。たった4分足らずのポップ・ソングの中に凝縮するのは簡単なことではありません」
「僕は、惹きつけて止まない魅力的な音楽を作りたいんだ。面白い分野だよ。音楽に引き寄せられるように感じるということだからさ。でも実際そうなっていっているのに気づかない。潜在意識がそうなるということだよ。親しみやすい音楽にすると共に、もっと深みのある層を作っていく。押し付けがましくではなくて」
「このアルバムは、みなを引き寄せて止まない魅力、を獲得したと思いますか?」
「わからない。あまりにも近くにいたからね。もう客観的には見られないんだ」
「イライラするんじゃないですか?」
「うーん…たいてい、出来上がる前に決断しないといけないからね」
「衝動的にということですか?」
「いつもそういう風にしたほうがいいこともあるね」
ある日、空港にいたモートンは、 スウェーデン人の女優を見かけました。モートンは、自分のガードマンに、彼女を自分のところへ連れてくるように言いました。それはただの冗談だったのですが、ガードマンは、モートンは、どの女性でも手に入れられるという意味に捉えました。
過程は省略します。その女性は、しばらくして、カミーラ・ハルケットという名前になりました。ヨーロッパ大陸で、夫が海神のように崇拝されている間、彼女は3人の小さな子供たちと平凡に暮らしていました。あるインタビューで、カミーラは自分のキャリアはお預けになったと語っています。
「女性とはうまくやってきたと思いますか?」
「人数という意味で?」
「質、という意味です。彼女たちは、あなたの子供を産みたいと思ったのですよね?」
「そうだね。変わってるよね」
「あなたはどんな父親だと思いますか?」
「躾けや秩序を守らせることには厳しいよ。それに、子供たちが限界を超えていないかということは気にかけている」
3人の最初の子供たちは今ではかなり成長しました。カミーラと離婚後は、同棲相手もいました。この同棲期間についてはあまり語られることはなく、アクアのレーネとの短いロマンスのほうが注目されたくらいです。しかし、この期間は充実していて、モートンはもう一人娘を授かりました。その子はもう5歳になります。
「今子供を持つというのは、以前と違いますか?」
「そうだね。残念ながら。今みたいに、上の3人の子供たちとも同じくらいの時間を過ごせたらよかったと思う。僕は若くて、あまり経験がなかった。ずっと離れていたわけじゃないけど、今の僕以上に、家に帰らなかったからね。小さい子供にとって、それがどんなに長く感じるかということを理解するのは大事だね」
「時間が許すようになったということですか、それともあなた自身の理解度が深まったということでしょうか?」
「以前の僕は、子供たちと過ごすための時間を取っておくなんて、と思っていた。今ではまったく逆だね。家族と十分な時間を過ごせないことが怖いんだ。でも一緒にするのは簡単じゃないね」
「家族と仕事というですか?」
「仕事の過程は、時には非情でもっと時間を割かないといけないこともある。仕事は、あまりこちらの意見には耳を傾けないし、家族と一緒にするのは難しいこともある。でも、家族と一緒に十分な時間を過ごせないと、芸術面でも支障がでてくるんだ」
「超有名人として働いた後、どうやって自分自身を保っていられるのでしょう?」
「有名であることは、僕に何の影響も与えないよ。社会現象っていうだけだから」
「巨大なコンサート会場全体が興奮状態になっていてもそういう風に考えようとするのですか?」
「もちろん。それで影響を受けたりしないよ。プライベートの僕とはまったく関係ないから」
「それでは、あなたは20年間も幻想の世界で過ごしているのですか?」
「そうだよ。多くの人たちにとっては。今は現実のレベルでの話だよね。誰も僕をひきずりこむことはできない。君にも同じことはできない。君はどこで独りなんだ。ずっとそのままだよ」
もうすぐ、ノルウェーとドイツでアルバムがリリースされます。 同時に、コンサートも控えています。3人の誰が演奏しているときでも、『Take On Me』を演奏してくれという叫びが聞かれることでしょう。a-haは終わってしまったわけではありません。バンドの存在は、じれったいほど確固たるものです。
「僕ら全員、a-haの作品、さらなる前進を待ち望んでいるんだ。ポール、マグネ、モートンではなくてね」
「いつも、ポール、マグネ、モートンではなかったのですか?」
「初期のころは違うよ。その後もちょこちょことね。でも僕らの誰もa-haじゃない」
「マグネは、ファーストアルバムの後、間違った方向に行ってしまった、と言っています。それは少し無礼だと思いませんか?」
「そうだね、タブロイド誌が書きそうなことだね。それが彼の狙いだよ」
「それでは、本当にそう思っているわけではないんですね?」
「いや、部分的にそう思っているんだよ。僕も多少は賛成できるけど、同時にそれは本当ではないとも言えるね。間違い以上のことをやってきたから。a-haを成功させるのはとても大変なことだよ。今の僕らだったら、もっとやれることがあったかもね」
「音楽以外に、取り組んでいることはありますか?」
「まあ、観ててよ。僕はアクティブでいたいんだ。それに、僕は自分が使える以上のものを持っている」
「もっと具体的に言ってもらえますか?」
「いや、それは実際の意味をなすまで、意味が無いことなんだ」
「もう少しヒントをくれませんか?じゃないと今夜眠れません」
「ヒントをあげたら、もっと妄想と想像が広がってしまうよ。ただ、僕は自分が使えるより多くのものを持っているって言っただけだよ」
知りたいこと:実際に群集とは存在するのか?
存在するかどうかという質問は、ちょっと早かったようです。でもこんな風に答えてくれました。モートンは、これ以上くだらないことに答えたくなかったようです。
「このお皿は存在していますか?」
「僕らが思っているようには存在してないよ」
「でも触って感じることはできますよね」
「それじゃ、僕から質問するよ:ドナルド・ダックは存在しているか?存在しないと答える人もいるだろう。しかし、君はドナルドの彼女が誰かということも知っているよね?ドナルドは僕たちの意識下に存在しているんだ。この皿も僕と君の意識下に存在している。でも現実に存在しているかどうかというと、それは個別に存在しているんだ」
「どういうことなんでしょう?」
「精神的な面という意味かな?この世はすべて、精神によって構成されているんだ」
「精神によってというと?」
「世界は、明らかに無から始まったんだ。宇宙の外には何もない。中身だけだ。僕らが住むシャボン玉の中は、何もないところから始まった。何にも存在しないところからね。無は存在すべてよりも大きいという理屈になる」
モートンのこの考えが初めて公共電波で伝えられたのは、 トロンハイムの記者会見の時でした。その後、あまりふれられてこなかったこの話題に、レポーターは再び挑みます。
「でもRBKについてはどうでしょう?ローゼンボルグは好きですか?」
翌日の新聞には、モートンは、すべては藁にしかすぎないと語った、と見出しが出ました。
「母国では、これについて真剣に話し合える場はないんだ」
「どんなことについて話し合いたいのですか?」
「語るべきことは、僕らが理解しているつもりの現実とは何を基盤にしているのかということだよ。存在しているとはどういうことなのか」
霧の王様などというニックネームが広まるゆえんです。
「霧の王様以上に僕がなりたい役もないよ。僕にはぴったりな役だよ」
「それがクビを絞めるようなことになってもですか?」
「それで打撃を受けたことはないな。今まで誰も僕を有効なやり方で捕まえることなんてできなかったね」
3分40秒。 『Take On Me』の長さです。1985年にアメリカでトップに輝きました。ノルウェー出身のグループとしては初の快挙でした。突然、すべてが可能になったのです。世界制服も夢ではありませんでした。ノルウェーは沸きかえりましたが、モートンは冷静なままでした。モートンには、17歳からそうなることがわかっていたということです。
「どうしてわかったのか、わからないよ。だけど、それを疑ったことは無かった。ちょっと酔いしれてたのかもしれないけど、音楽を通じて世界に出て行かれると思っていた」
「あなたが本当は『Take On Me』を気に入っていないというのは本当ですか?」
「違うよ、だけど、他のバージョンだったらと思うことがある」
「弦楽器等を使うとか?」
「弦楽器じゃなくて…もっと活気があるバージョン」
「活気ですか?」
「もっと伸びやかで、同時に明るい軽快さもあるような。あの曲はちょっとシンセのストリングスの音のイメージばかりで。でも『Take On Me』には異論はないよ。ヒットしたんだし!」
「あなたの目的は、世界的に有名になることだったのでしょうか?」
「それは、目的じゃないよ。ただそういうものだったということだよ」
「あなたが声を大にして言いたいことだったのでしょうか?」
「時々ね」
「それは、他の子供たちに殴られていたからなんでしょうか?」
「いや、これは、青春時代の話だよ。まだ覚えているんだ。すごく音楽的に高まる経験をしたんだ」
「自分で書いた曲ですか、それとも他の人の曲ですか?」
「いや、まだ一度も聴いたことが無い音楽だった。何時間にもわたって聞こえてきた。精神的に入り込んできたという感じだった。音楽は、まだ出来上がっていなかった。そして、その後もできなかった。なぜなら、それを引き出す正しい道具を持ってなかったからね。まだ誰の手によって書かれたものではなかった」
「音符を書くことを学んでいたらよかったですね」
「音符は、僕には意味をなさないものなんだ」
モートンの両親は、気をつけて励ましてあげないといけない子供だと理解することになります。 2歳の時、バンドが演奏する音楽を聴いて興奮しておもらしをしてしまったモートン。ピアノに向かって鍵盤を小さな指で鳴らしました。4歳か5歳のころになると、まるで翼を得たかのような気分でした。車の中のバックシートで、"Kom mai, du skjønne, milde"を歌いました。しかし、ピアノの先生がやってきたとたん、すべてが壊れてしまったのです。
「あのきらめきは燃え尽きてしまった。すぐに冷え切った暗い場所へもぐりこんでしまったんだ」
「なぜですか?」
「僕は教えられたく無かった。体験したかったんだ」
レストランのメニューには、小麦かじゃがいもが入った料理しかありませんでした。 ハルケットが、スペルトかライ麦のメニューはあるかと訊くと、ウェイターは、まるで精神論でも語るかのように答えました。グルテンフリーのものはありましたが、食べたいと思うような代物ではありませんでした。
「グルテンフリーは、病院食だね、美味しくはない。だからスペルト小麦を勧めるんだ。僕は、根菜と、コーラを頼むことにするよ。普通にね」
ウェイターは、緊張した面持ちで、奥へ入っていきました。根菜があるかどうかもわからなかったようです。
「小麦は食べないのに、コーラは大丈夫だと言えるんですか?」
「言えないよ。砂糖の摂取にも気をつけるべきだよね。だけど、小麦はもっと悪いんだ」
「コーラは、とても美味しい…」
「僕は ダイエットにあまりにも忠実な生活をしたいとは思わない。ケーキがあれば食べるよ。だけど、今日まで小麦がしてきたことを考えるとね。頭をぼーっとさせるし、太ってしまう。栄養士たちは、小麦もスペルトと同じように体に良いと言う。だけど、それが正しいとは思えないんだ。それは、スペルト小麦の質が落ちてきていることからも言える」
「どうしてですか?」
「要望が高いのにあまりにも生産量が少ないんだ。それで、スペルトの質が落ちてしまった。いずれ改善されることを願ってるよ。」
「Peppesのピザがスペルト小麦でできたピザ生地を使っていることは悪い兆候ですか?」
「良い面と悪い面と両方さ。僕がスペルトダイエットを始めたころより品質が下がっている。環境に良いスペルト以外はね」
13年前、 モートンは、三位一体から初めて離れ、ソロアルバム『Wild Seed』をリリースしました。満足な出来上がりでした。批評家も気に入ったようです。次のソロアルバムまでにこれほど時間が空くことになると予想する人はいませんでした。
「あれから妙に時間がたってしまったね。変だよね」モートンは考え深げに答えました。
確かに奇妙です。モートンは現在48歳です。しかし、彼の肉体は、歳を重ねることと、若い女性のアイドルでいられなくなることを拒絶しているように見えます。時間がそこで止まってしまったという感じすらします。40代の多くの男性がそうであるように、モートンの耳の前には小じわがありますし、顔に刻まれたしわも深くなっています。それでも、1986年にブレスレットを巻きつけ、歌っていた彼の姿がいまだに表に浮かび上がってくるのです。
「アルバムが市場にでることは怖くありませんか?」
「こういう時に心配になることってあるんだろうね。僕はそうはならないんだ。確かに恐怖はそこにあるね。だけど、長いことそうやって気にしていてもしょうがない。恐れていてもどうにもならないんだしね」
「そういう感情を閉ざしてしまうのですか?」
「僕はそいつの目をまっすぐに見つめるんだ」
「"恐怖"の目ですか?」
「そう。そうすれば消え去る。問いかけるんだ。これは合理的なものか?違う。それに対して何かできるのか?できない。音楽との出会いは、自由きままに、突然出会うものだよ。他の人たちの感情をコントロールすることはできない。僕がいったん手放したら、自分の脚でしっかり立たなければならないんだ」
「批評家たちは、ナイフを研いで待ち構えているんでしょうか、それとも両腕を広げて迎え入れてくれているんでしょうか?」
「両方だと思うよ。間違いなく、彼らとってはいらいらする面もあると思う。僕はこの仕事を長年やっているからね。まったく、他にいないのか?と思うだろうね。でもそれに耐えてもらわないとね」
モートンは、ファルセットヴォイスで有名ですが、 ソングライターとしても有名になりたいと思っているのでしょうか。a-haが復活した後でも、メインのソングライターはポールとマグネです。
「『Wild Seed』は、ソングライターに出世したターニングポイントといえますか?」
「それ以上のものがあるよ。君が言っているのは(ソングライターとしても)世間に認められたということだよね。だけど、あのレコードは、僕自身へソングライターであるということに気づかせてくれた。音楽の世界で自分の居場所、アーティストとしての自分を発見できたんだ。そういうのってなんていうんだっけ?」
「アートと呼んでもいいのですか?」
「呼んでもいいよ。アートとは、自分に対して表現することだよ。自分の気づかなかった一面を知ることができる。音楽でそれができるのなら、それはアートだ。だけど、純粋なエンターテイメントになることもできるね」
「あなたの中でアートの部分はどれくらいなのでしょう?」
「いや…もし僕がこれをエンターテイメントとしてやっているだけだったら、とっくに辞めていたよ」
「それでは、a-haがラスべガスのショーで演奏することはありえないんですね?」
「僕ら自身でいられるんだったら、ありえるよ」
「惹きつけて止まない魅力的な音楽を作る、というのがモートンの望みです。「惹きつけて止まない魅力」。たった4分足らずのポップ・ソングの中に凝縮するのは簡単なことではありません」
「僕は、惹きつけて止まない魅力的な音楽を作りたいんだ。面白い分野だよ。音楽に引き寄せられるように感じるということだからさ。でも実際そうなっていっているのに気づかない。潜在意識がそうなるということだよ。親しみやすい音楽にすると共に、もっと深みのある層を作っていく。押し付けがましくではなくて」
「このアルバムは、みなを引き寄せて止まない魅力、を獲得したと思いますか?」
「わからない。あまりにも近くにいたからね。もう客観的には見られないんだ」
「イライラするんじゃないですか?」
「うーん…たいてい、出来上がる前に決断しないといけないからね」
「衝動的にということですか?」
「いつもそういう風にしたほうがいいこともあるね」
ある日、空港にいたモートンは、 スウェーデン人の女優を見かけました。モートンは、自分のガードマンに、彼女を自分のところへ連れてくるように言いました。それはただの冗談だったのですが、ガードマンは、モートンは、どの女性でも手に入れられるという意味に捉えました。
過程は省略します。その女性は、しばらくして、カミーラ・ハルケットという名前になりました。ヨーロッパ大陸で、夫が海神のように崇拝されている間、彼女は3人の小さな子供たちと平凡に暮らしていました。あるインタビューで、カミーラは自分のキャリアはお預けになったと語っています。
「女性とはうまくやってきたと思いますか?」
「人数という意味で?」
「質、という意味です。彼女たちは、あなたの子供を産みたいと思ったのですよね?」
「そうだね。変わってるよね」
「あなたはどんな父親だと思いますか?」
「躾けや秩序を守らせることには厳しいよ。それに、子供たちが限界を超えていないかということは気にかけている」
3人の最初の子供たちは今ではかなり成長しました。カミーラと離婚後は、同棲相手もいました。この同棲期間についてはあまり語られることはなく、アクアのレーネとの短いロマンスのほうが注目されたくらいです。しかし、この期間は充実していて、モートンはもう一人娘を授かりました。その子はもう5歳になります。
「今子供を持つというのは、以前と違いますか?」
「そうだね。残念ながら。今みたいに、上の3人の子供たちとも同じくらいの時間を過ごせたらよかったと思う。僕は若くて、あまり経験がなかった。ずっと離れていたわけじゃないけど、今の僕以上に、家に帰らなかったからね。小さい子供にとって、それがどんなに長く感じるかということを理解するのは大事だね」
「時間が許すようになったということですか、それともあなた自身の理解度が深まったということでしょうか?」
「以前の僕は、子供たちと過ごすための時間を取っておくなんて、と思っていた。今ではまったく逆だね。家族と十分な時間を過ごせないことが怖いんだ。でも一緒にするのは簡単じゃないね」
「家族と仕事というですか?」
「仕事の過程は、時には非情でもっと時間を割かないといけないこともある。仕事は、あまりこちらの意見には耳を傾けないし、家族と一緒にするのは難しいこともある。でも、家族と一緒に十分な時間を過ごせないと、芸術面でも支障がでてくるんだ」
「超有名人として働いた後、どうやって自分自身を保っていられるのでしょう?」
「有名であることは、僕に何の影響も与えないよ。社会現象っていうだけだから」
「巨大なコンサート会場全体が興奮状態になっていてもそういう風に考えようとするのですか?」
「もちろん。それで影響を受けたりしないよ。プライベートの僕とはまったく関係ないから」
「それでは、あなたは20年間も幻想の世界で過ごしているのですか?」
「そうだよ。多くの人たちにとっては。今は現実のレベルでの話だよね。誰も僕をひきずりこむことはできない。君にも同じことはできない。君はどこで独りなんだ。ずっとそのままだよ」
もうすぐ、ノルウェーとドイツでアルバムがリリースされます。 同時に、コンサートも控えています。3人の誰が演奏しているときでも、『Take On Me』を演奏してくれという叫びが聞かれることでしょう。a-haは終わってしまったわけではありません。バンドの存在は、じれったいほど確固たるものです。
「僕ら全員、a-haの作品、さらなる前進を待ち望んでいるんだ。ポール、マグネ、モートンではなくてね」
「いつも、ポール、マグネ、モートンではなかったのですか?」
「初期のころは違うよ。その後もちょこちょことね。でも僕らの誰もa-haじゃない」
「マグネは、ファーストアルバムの後、間違った方向に行ってしまった、と言っています。それは少し無礼だと思いませんか?」
「そうだね、タブロイド誌が書きそうなことだね。それが彼の狙いだよ」
「それでは、本当にそう思っているわけではないんですね?」
「いや、部分的にそう思っているんだよ。僕も多少は賛成できるけど、同時にそれは本当ではないとも言えるね。間違い以上のことをやってきたから。a-haを成功させるのはとても大変なことだよ。今の僕らだったら、もっとやれることがあったかもね」
「音楽以外に、取り組んでいることはありますか?」
「まあ、観ててよ。僕はアクティブでいたいんだ。それに、僕は自分が使える以上のものを持っている」
「もっと具体的に言ってもらえますか?」
「いや、それは実際の意味をなすまで、意味が無いことなんだ」
「もう少しヒントをくれませんか?じゃないと今夜眠れません」
「ヒントをあげたら、もっと妄想と想像が広がってしまうよ。ただ、僕は自分が使えるより多くのものを持っているって言っただけだよ」
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2008-05-11
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EDIT
宣教師が非難の的になるのは不当だ <the NMS magazine 1995>
訳:Mayumi
「僕が子供の頃、一般的に宣教師が嫌われている時期があった。特に帝国主義について語るような(政治的に)左翼の人間にね。白人が犯したありとあらゆる過ちは、宣教師のせいにされたんだ。実際に起こったことへの大きな誤解だと思う」
アーティスト、モートン・ハルケットは語った。
モートン・ハルケットにとって、宣教活動はなじみの深いものだ。彼の育った家に置いてあった雑誌は、宣教師を非難するたぐいのものではなかった。
「僕の両親は、世界中で宣教師がどんな活動をしているのか、常に注目してきたし、家に宣教師たちがよく訪ねてきていた」
自分の能力や信ずることを天職にしている、ごく普通の人々との出会いだと、彼は説明する。
彼の家族からも何人か宣教活動にたずさわってきたし、今でもその一端として活動を続けている人もいる。彼は、宣教師が文化的な面の帝国主義者よばわりされていることを理解しているし、そのことを残念に思っている。
「問題なのは、僕らの文化や思想によってキリスト教がどのように影響されたか、という部分を直視しない人が多いことだと思う。それに残念ながら、常にはっきりとしたゴールがみえていない信者が多いと思う。ゴールではなくて、意味を考えるほうに気をとられているようだね。すべては自由のもとに行われなければならない。力ずくで人々の心を勝ち取ることはできない」
彼は、TVやラジオによる福音伝道は好きではないが、個人の集会は信じるという。
「福音(ゴスペル)は小人数で共有するべきだよ。小さいけれど、オープンな集会でね。(宣教は)1晩でできることではないよ。時間をかけておこなわれるプロセスだ。どんな場合でも、人の心に入りこむべきものなんだ。頭の中に侵入するのではなくてね。
「NMS(ノルウェー・宣教師組合)のような団体の宣伝のやり方についてどう思われますか」
「メディアとくっついてしまうべきではないと思う。(うまくいったとしても)短期的な成功でしかないと思んだ。成功するためには、底辺から築いていくしかないと思うんだ。実際に人々と会って話をすることで伝道できれば良いと思う」
なじみ深い典礼:
モートン・ハルケットは、ポップグループ、a-haのボーカリストとして最も有名だろう。a-haは80年代半ばに、諸外国で占められていたミュージック・シーンにノルウェーを紹介したバンドである。今春、最初のソロ・アルバムと共に、モートン・ハルケットの名前が、再び話題にのぼることになりそうだ。
(Ragnar)Bjerkreimによるコンサート・ミサ曲集の「Missa Caritatis」が2月22日に発売された。モートン・ハルケットは、ソロシンガーとして、ソプラノのBodil Arnesenと共に参加している。
「このアルバムに参加することにした理由は、Ragnarがやろうとしていることが、僕にとっても大切な基準にもとづいたものだったからだ」
映画 “Kamilla of Tyven”の撮影中に、モートン・ハルケットはサウンド・トラックの作曲を手がけたRagnar Bjerkreimと音楽的な出会いをした。Bjerkreimは朝の礼拝(典礼)の歌詞を元に、コンサート・ミサ曲を書き上げた。典礼はモートン・ハルケットにとって、なじみ深い儀式である。
「青春時代、よく教会へ足を運んだんだ。典礼は、教会にかかわって育ってきた人間には理解できるものだと思う。教会とまったく関係ない人にはいかがわしいものにしか見えないだろうね。そういう人たちは典礼に関心を示さないことが多いけど、内側から(典礼とはなにか)理解していないからだろうね。
破滅が好き:
レコード会社、Kirkelig Kulturverkstedから『Poetenes Evangelium』が発売されたのは1993年だった。モートン・ハルケットの声と歌い方は、このアルバムのムードをかもし出す非常に大切な部分となっている。『Poetenes Evangelium』と『Missa Caritatis』は、明らかに、キリスト教の思想と信仰に関係している作品だ。
「これらのアルバム制作に参加するようになった動機はなんですか?」
「僕のキリスト教信仰と直接関係しているからではなくて、まったく初めて僕の声が楽器として使われることになったからなんだ。まあ、僕はたまたま信者だけど、信者でなかったとしても、僕の声が作品の中で重要な楽器であることはかわりないよ」
「(これらの作品に参加したことで)a-haやあなたのソロ・キャリアを破滅させる恐れはありますか?」
「僕にわかることで一番良いのは破滅するっていうことだよ。Poetenes Evangeliumは僕のキャリアでハイライトのひとつだと思う。プレスのレビューが悪くなかったから、そう言っているわけではないよ。このアルバムが僕や、リスナーにくれたものはなにか、よくわかっているつもりだ。僕自身、これほどありのままのものに取り組んだことはなかった。自分の声と直感を駆使して、よく理
解していなかった歌詞の内容と向き合った。良い音楽的な経験になったし、こういった情況ですごく緊張感があったよ。
※H+D MLにポストされたモノを翻訳しました。(転載許可確認済)
元記事:Ranveig Ronningen、英訳:Jakob Sekse
「NMS(ノルウェー・宣教師組合)のような団体の宣伝のやり方についてどう思われますか」
「メディアとくっついてしまうべきではないと思う。(うまくいったとしても)短期的な成功でしかないと思んだ。成功するためには、底辺から築いていくしかないと思うんだ。実際に人々と会って話をすることで伝道できれば良いと思う」
なじみ深い典礼:
モートン・ハルケットは、ポップグループ、a-haのボーカリストとして最も有名だろう。a-haは80年代半ばに、諸外国で占められていたミュージック・シーンにノルウェーを紹介したバンドである。今春、最初のソロ・アルバムと共に、モートン・ハルケットの名前が、再び話題にのぼることになりそうだ。
(Ragnar)Bjerkreimによるコンサート・ミサ曲集の「Missa Caritatis」が2月22日に発売された。モートン・ハルケットは、ソロシンガーとして、ソプラノのBodil Arnesenと共に参加している。
「このアルバムに参加することにした理由は、Ragnarがやろうとしていることが、僕にとっても大切な基準にもとづいたものだったからだ」
映画 “Kamilla of Tyven”の撮影中に、モートン・ハルケットはサウンド・トラックの作曲を手がけたRagnar Bjerkreimと音楽的な出会いをした。Bjerkreimは朝の礼拝(典礼)の歌詞を元に、コンサート・ミサ曲を書き上げた。典礼はモートン・ハルケットにとって、なじみ深い儀式である。
「青春時代、よく教会へ足を運んだんだ。典礼は、教会にかかわって育ってきた人間には理解できるものだと思う。教会とまったく関係ない人にはいかがわしいものにしか見えないだろうね。そういう人たちは典礼に関心を示さないことが多いけど、内側から(典礼とはなにか)理解していないからだろうね。
破滅が好き:
レコード会社、Kirkelig Kulturverkstedから『Poetenes Evangelium』が発売されたのは1993年だった。モートン・ハルケットの声と歌い方は、このアルバムのムードをかもし出す非常に大切な部分となっている。『Poetenes Evangelium』と『Missa Caritatis』は、明らかに、キリスト教の思想と信仰に関係している作品だ。
「これらのアルバム制作に参加するようになった動機はなんですか?」
「僕のキリスト教信仰と直接関係しているからではなくて、まったく初めて僕の声が楽器として使われることになったからなんだ。まあ、僕はたまたま信者だけど、信者でなかったとしても、僕の声が作品の中で重要な楽器であることはかわりないよ」
「(これらの作品に参加したことで)a-haやあなたのソロ・キャリアを破滅させる恐れはありますか?」
「僕にわかることで一番良いのは破滅するっていうことだよ。Poetenes Evangeliumは僕のキャリアでハイライトのひとつだと思う。プレスのレビューが悪くなかったから、そう言っているわけではないよ。このアルバムが僕や、リスナーにくれたものはなにか、よくわかっているつもりだ。僕自身、これほどありのままのものに取り組んだことはなかった。自分の声と直感を駆使して、よく理
解していなかった歌詞の内容と向き合った。良い音楽的な経験になったし、こういった情況ですごく緊張感があったよ。
※H+D MLにポストされたモノを翻訳しました。(転載許可確認済)
元記事:Ranveig Ronningen、英訳:Jakob Sekse
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2000-05-10
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真っ黒い悪魔の上で燃やされるキリスト <NettPuls PART 3 04/04/99>
訳:Mayumi
モートン・ハルケットと出会った人のほとんどが、彼はナイスガイだと言うだろう。名声が彼を何か別のものにしてしまっているのだ。「『世間』は『頭1つ出た』人間をいつでも嫌うものなんだよ」モートンはよく仰々しい発言をし、センセーショナルな結論を出すことになるのだが、それは他の人の出す結論とはまったく逆であることが多い。モートン自身は、音楽とは関係無いたくさんの重要な事項に対しても意見をした経験がある。例えば、彼のBellonaへの支援(ノルウェーの団体で、グリーンピースに似ている)は、ポップスターはまったく意味のあることを言うべきではないという概念とは対照的なものだ。それにも関わらず、モートンは、もちろん有名人としての顔がさらされることへの危険性が十分わかる知性を備えている。二重のモラルに対する反論は免れられまい。
「とても難しいことだよ。僕は、丘を登って「この丘は僕のものだ。僕が作ったんだ!」と言うことには大反対だよ。そういうことを言うとしたら、内部で働く機会が与えられたときだろうね。それだったら全て本当だからね。避けられるのなら、自分の顔は絶対に使うべきではない。この場合自体は、裏側の影響力でなければいけないね」とモートンは言う。
「僕は、自転車に乗った伝道師のひとりとして扱われないようにいろんなことをしてきた。そうなったら最悪だよ。僕が自然環境支援をしていた時期、仕事場にそういう勢力があった。その時、ちょうど僕はメルセデス500を買ったんだ。僕からの反発をこめてね。伝道師にされないようにさ(?!)」
「僕は良い子では無くなった。そうだよね?僕は自転車に乗ったまぬけな男じゃない。仕事をする時は常に、ジャンボに乗って行ったり来たりする。自分の車を持っていなかったら、誰かが僕を迎えに来て僕が行きたいところへ連れて行ってくれるだけさ。(自転車用の)ヘルメットをかぶってダーグブラーデ誌に写真を撮ってもらうことは、間違っているしそんなの偽りだよ」
「人々の目を僕から離すことができればできるほど、いいことだよ。僕は世間からこういう人間だとかああいう人間だとか決めつけられたくない。彼らに不確かに感じて欲しい。そうすれば、もっと新しいものに繊細になれるしオープンになれる」
モートンの音楽に対する哲学
モートンのソロ・キャリアがスタートする前は、成功を危ぶむ声が多かった。モートンははたして、ポール・ワークター・サヴォイが書いた曲が無くても成功できるのだろうか?誰に何がわかるというのだろう。a-haにいた10年間の間、“サインをするだけ”だったモートン・ハルケットが、シングルヒットしそうな曲を何曲も収録された フル・アルバム『Wild Seed』を作り上げたのだ!本当に“ビギナー”によって書かれた作品なのだろうか?誰かが『A King of Christmas Card』のような完璧なポップソングを作ろうとしても足元にも及ばないだろう。そして更に素晴らしい曲が続く。アルバムはいまだに売れつづけており、ノルウェーの15万5千世帯で見つけることができる。もし海外でも立派にプロモーションされていたら、アルバムが世界中で売れていたかどうかは神のみぞ知るところだ。
『Wild Seed』の制作は有益なものだった。そして、創作者のモートンに言わせると『システムから抜け出すためのチャレンジ』だったそうだ。これに続く『Vogts Villa』の売り上げは、『Wild Seed』 に及ばなかったものの、力強い美しい旋律、メロディーを重視した時代を超えた伝統的な曲作りという印象を与える。モートンには、“最新流行を追う”必要を感じることは無いようだ。
「たいてい、新しい音楽を聴くだけの気力がわいてこないんだ。自分の頭のスペースを全部使い切らないように気をつけているからね。自分が夢中になれるものだけ欲しい。他にはなにもいらないよ。a-haがブレークして以来、新しい音楽トレンドを追うことはほとんどなくなったよ」
「良いものが作られなくなったというわけではないよ。もちろん、作られていると思う。自分が見失っているものは沢山あるのは確かだね。だけど、同時に僕は、自分にうったえかけるもの、僕の心を捕らえることをやっているんだ。影響を受けるならそれのほうがこちらよりも良いかどうかは、まったく机上の論理さ」
「それは、ダーグブラーデ誌がカラー印刷かそれともモノクロ印刷になるのか、または何曜日なのか、または、君の車が何色か、というくらいの興味しかない。全てはこれにつきる。この例えで、僕が言う意味がわかるかい?」
「ジャズ、タンゴ、ロック、なんでもありさ。世間の一部の人々とだけとコミュニケーションをとるわけではないからね。今は、コミュニケーションをしてみたい他の人々の“ジャングル・リスト”があるんだ。それだけさ!だから、売れ線の楽しげなポップソングに新たな興味を抱いている。ポップソングは無慈悲ですごく難しいジャンルだからね。ポップソングというのは、非常に小さな形式の中で作られるものだ。そして、同時に普段コミュニケーションをとることが無い人々に語りかけることができる。エキサイティングだよね?」
(転載許可確認済)Thanks to memorialbeach.com 英訳:Cindy Kandolf
「僕は、自転車に乗った伝道師のひとりとして扱われないようにいろんなことをしてきた。そうなったら最悪だよ。僕が自然環境支援をしていた時期、仕事場にそういう勢力があった。その時、ちょうど僕はメルセデス500を買ったんだ。僕からの反発をこめてね。伝道師にされないようにさ(?!)」
「僕は良い子では無くなった。そうだよね?僕は自転車に乗ったまぬけな男じゃない。仕事をする時は常に、ジャンボに乗って行ったり来たりする。自分の車を持っていなかったら、誰かが僕を迎えに来て僕が行きたいところへ連れて行ってくれるだけさ。(自転車用の)ヘルメットをかぶってダーグブラーデ誌に写真を撮ってもらうことは、間違っているしそんなの偽りだよ」
「人々の目を僕から離すことができればできるほど、いいことだよ。僕は世間からこういう人間だとかああいう人間だとか決めつけられたくない。彼らに不確かに感じて欲しい。そうすれば、もっと新しいものに繊細になれるしオープンになれる」
モートンの音楽に対する哲学
モートンのソロ・キャリアがスタートする前は、成功を危ぶむ声が多かった。モートンははたして、ポール・ワークター・サヴォイが書いた曲が無くても成功できるのだろうか?誰に何がわかるというのだろう。a-haにいた10年間の間、“サインをするだけ”だったモートン・ハルケットが、シングルヒットしそうな曲を何曲も収録された フル・アルバム『Wild Seed』を作り上げたのだ!本当に“ビギナー”によって書かれた作品なのだろうか?誰かが『A King of Christmas Card』のような完璧なポップソングを作ろうとしても足元にも及ばないだろう。そして更に素晴らしい曲が続く。アルバムはいまだに売れつづけており、ノルウェーの15万5千世帯で見つけることができる。もし海外でも立派にプロモーションされていたら、アルバムが世界中で売れていたかどうかは神のみぞ知るところだ。
『Wild Seed』の制作は有益なものだった。そして、創作者のモートンに言わせると『システムから抜け出すためのチャレンジ』だったそうだ。これに続く『Vogts Villa』の売り上げは、『Wild Seed』 に及ばなかったものの、力強い美しい旋律、メロディーを重視した時代を超えた伝統的な曲作りという印象を与える。モートンには、“最新流行を追う”必要を感じることは無いようだ。
「たいてい、新しい音楽を聴くだけの気力がわいてこないんだ。自分の頭のスペースを全部使い切らないように気をつけているからね。自分が夢中になれるものだけ欲しい。他にはなにもいらないよ。a-haがブレークして以来、新しい音楽トレンドを追うことはほとんどなくなったよ」
「良いものが作られなくなったというわけではないよ。もちろん、作られていると思う。自分が見失っているものは沢山あるのは確かだね。だけど、同時に僕は、自分にうったえかけるもの、僕の心を捕らえることをやっているんだ。影響を受けるならそれのほうがこちらよりも良いかどうかは、まったく机上の論理さ」
「それは、ダーグブラーデ誌がカラー印刷かそれともモノクロ印刷になるのか、または何曜日なのか、または、君の車が何色か、というくらいの興味しかない。全てはこれにつきる。この例えで、僕が言う意味がわかるかい?」
「ジャズ、タンゴ、ロック、なんでもありさ。世間の一部の人々とだけとコミュニケーションをとるわけではないからね。今は、コミュニケーションをしてみたい他の人々の“ジャングル・リスト”があるんだ。それだけさ!だから、売れ線の楽しげなポップソングに新たな興味を抱いている。ポップソングは無慈悲ですごく難しいジャンルだからね。ポップソングというのは、非常に小さな形式の中で作られるものだ。そして、同時に普段コミュニケーションをとることが無い人々に語りかけることができる。エキサイティングだよね?」
(転載許可確認済)Thanks to memorialbeach.com 英訳:Cindy Kandolf
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2000-05-10
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真っ黒い悪魔の上で燃やされるキリスト <NettPuls PART 2 10/03/99>
訳:Mayumi
「ポールとマグネは、僕が歌ったり実際に演奏するのを見る前からバンドに欲しがった。でかい態度と個性こそが全てだったんだ。最初、彼らは僕をドラマーとして欲しがった。ポールは、誰もボーカルに迎える気がなかった。同時に僕には、僕以外シンガーにはなれない、とわかっていた」ノルウェーで最も有名なスターであるモートンは、インタビューの第2部でそう語った。(この部分を)どこで読んだのか覚えておいてください。これから話が終わるまでかなりの長さを擁します。
ソルジャーブルー時代、モートンはマグネ・フルホルメンとポール・ワークターに出会った。1979年のことである。ポールとマグネにとっての初めての本格的なバンドであるブリッジスに、モートンは感心した。モートン、マグネ、ポールは3人のまったく違う個性である。しかし、お互い、大きな音楽的野心という共通点を見出した。
a-haは1982年の9月に誕生した。
マグネとポールとの出会い
「ブリッジスは、僕のずっと先をいっていた。すでに、ポールとマグネは才能あるソングライターで、ものすごく成熟していた。ブリッジスは世界的なレベルのミュージシャンともう少しで肩を並べられるレベルに達していた。ブリッジスのアルバム『Fakkeltog』(1980年リリース)には、とても感銘を受けた。そして僕の状況をがらりと変えることになった。ポールとマグネは、自分たちが行きたいところへ行けるだけの力を持っていた。ノルウェーで彼らのようなバンドにめぐり合えたことはまさに衝撃だったよ。すごく興奮した。すでに障害は何もなかったんだ」
そしてa-haの歴史が始まった。
ローリングストーン誌の取材を断る
a-haは新たに再結成し、『失敗という言葉は選択に無い』という原理にしたがって、国際的に成功を収めた。彼らは、成功を“したら”という言葉は使わなかった。そうではなく、成功する“とき”について話をした。
『Take On Me』はビルボード誌のシングルチャートで1位に達した。1985年9月だったが、いまだに歴史的な瞬間である。ローリングストーン誌のインタビューと、ジョニー・カーソン・ショーの出演を断ったのにもかかわらず、リオ・デ・ジャネイロでは20万人もの観客を前に演奏した。
商業的成功を収めれば収めるほど、ノルウェーのマスコミは彼らを”参らせよう“と躍起になった。マスコミの多くはa-haが大きく失敗することを“望んだ”。しかし、20万人の観客を動員したことはどう考えればよいのだろう…。
ノルウェーのプレス
モートンは、ノルウェーのマスコミが“a-haを参らせよう”とすることに対してある程度幻滅をしたようだ。
「彼らは、自分がどんなことを言っているのかわからないんだよ。事実を見ている人には、僕らがどんなにたくさんのTV番組に出演したか、どのくらいヒット曲をだしたのかわかっている…。ほとんどの人が信じていることは、重要さの順序が逆だということを言っているんだ。それとまったく同時に、プレスは海外で僕らが失敗したかのように書きたてた。それは80年代後半の話だけれど、当時ワーナーは僕らを国際的に最も売れたバンドとしてお祝いしてくれたんだよ。」
「それじゃ、銀行預金明細の上にあぐらをかいている人たちと、プレスとどっちが正しいと思う?馬鹿げているし、クレイジーだよ。世間はわかっていないんだ。いいかい、いつまでも文句ばかりいっているのは間違っているけれど、もう1度だけ言わせてもらう。ありのままに言わないのだったら語るべきではない。僕を全てから楽にして欲しいなんて誰からも望まないし、自分の能力以上に僕を持ち上げて欲しいなんて望んでいないよ。リオでは、僕らはライブコンサートの(※観客動員数の)世界記録を打ち立てた。これは歴史的な事実さ。僕が思いついたことでも他の人が本当だと信じ込んでいることでもないんだ」
「スペードはスペードにしかすぎない。それに慣れなければならないし、水に流さなければならないんだ。例えば、僕が他のみんなと違わないという振りをするのは馬鹿げているよ。僕はもちろんみんなと違う!僕個人の人生は他の人の人生とは違う。それは、僕が良いやつなのか悪いやつなのかという問題じゃないんだ。僕は自分の人生は少しばかり違うと言っているだけだよ」
a-haメンバーの間に飛び散る火花
新聞の見出しを読むと、a-haの再結成は予想通りになりそうだ。しかし、モートンとポール・ワークター・サヴォイの緊張状態は予想以上に高いと推測されている。
オスロの新聞社は、スパイを送りこむような真似をした。彼らは、Rockefellerで行われたSavoyの初ライブの後、モートンとポールの間に“険悪なムード”を感じたと告げている。
モートンが『a-haは友情を基本にしたバンドではない』と言ったのは、こういった推測から距離を置く必要を感じたからだろう。
「プレスには理解できないことだよ。彼らは絶対に理解“しよう”としないんだ。a-haは、友情を基本にしたバンドではない。どのみち友情は必要無かった。それは僕らが友人ではないという意味ではないよ。a-haは、常に“今起こっていること”を基本にしてきた。真剣で、大規模なプロジェクト、ものすごい規模のものを僕らはきちんとこなしていかなければならない。それは、僕らが一緒にやることに基づいているのではなく、それを超越しているだ。僕らはプロジェクトに深く関わっているからこそ一緒にいる。そして、僕らの私生活がある。僕ら個人の友人がいる」
「もちろん、とても親密に一緒に働いているときは、一緒にいろんなことをするし、お互いに情がうつるよ。メディアの頭が鈍いのはそこなんだ。彼らは、子供っぽいマンガの絵で、僕らの関係がどうあるのか描写してきた。プレスが、ポールと僕は互いに戦争状態である、と書きたてるのは、内心自分たちの間違いを隠そうとしているからだと思うね。彼らは逐一すべてをでっちあげた上、まるで“僕ら”がそう言っているようにみせかけるんだよ」
バンドがうまくいくために
「世間は、Savoyの『Daylight Wasting』は僕に平手打ちを食わせている曲なのではと疑っているようだね。そうだったらどうだっていうんだい?そんなことにはまったく興味無いね。a-haは昔も今も国際的に活動しているバンドで、国際的なバンドを導く強い勢いは問題を引き起こし得る。それを目の当たりにするのは構わない。いろんなことが起こるし、自分の感情を率直に表して自由になる必要があるんだ」
「ポールが自分の抱えている問題について詞を書いたとすると、自分のやりかたで言葉にしたいことがあったからだよ。それが、たとえ僕の背中を突き刺すことで“ある”にしてもね。僕はOKだよ。まったく構わない。僕はここに座って、彼が本当にそうする必要があるのかどうかよくわからないでいるけれど、そんなことは特に興味無いね。“そんなことには1秒たりとも惑わされないよ!”彼が活動を続けるのには何を必要としているのかということが問題なんだ。マグネにが活動を続けるのは何が必要なのか、そして僕には何が必要なのか…その後で、バンドが活動を続けるにには何が必要なのかということだよ。そうでなけれど、うまくいかないと思うよ。みんながハッピーで静止した状態を望んだことは1度もない。」
僕にはポールを変える事はできない
「最初は退屈なものだった。そして次は現実離れしていた。偶然に、マグネと僕の関係はポールとの関係とはまったく違うものになった。彼らはまったく違う生き物なんだ。ポールには 自分の物事のバランスをはかる自分の世界があって、それから僕に心のドアを開いてくれた。そのドアはマグネの心のドアとは違うんだ。僕とポールの間はかなり緊張があるよ」
「僕には、ポールの性質を変えることや彼を違う人間にすることはできない。それはまるでしまうまのしまを剥ぐようなものだよ。彼は彼自身だし、曲を書いたり、プロデュースすることができるし、彼らしいことをする。それだけさ。僕はただそれに対応したいだけで、現実の範囲で活動し、生産的であることを学んだ。だけど、そうするためにa-haを出る必要があった」
「自分がa-haの中でひどくくすんでしまっていることに気付いた。最後には、僕はポールがやっていることに貢献したり、理解することができなくなっていた。最後には、ポールはたくさんの責任を背負い、同時にほとんどをコントロールしていた。そしてバンドがうまくいかなくなった。僕は何の価値もないままそこに座っているだけだった。僕にはa-haでできることは何も無かったんだ」とモートンは当時を語った。
妹と一緒にBRAVOに掲載される
ノルウェーのマスコミだけがa-haのコンセプトを誤解していたのではなかった。外国のマスコミからも、a-haは初期の頃から不幸な10代のアイドル/一発屋というイメージをつけられた。それはバンドの懐の深さやクリエイティブであることへの野心とはまったく合い入れないものだった。当時、悲喜劇といえる事件があった。モートンは、ドイツの有名なティーン向け雑誌『Bravo』の表紙に載り、記事の見だしになった。『バンティー(・ベイリー、TOMのヴィデオに出演した女優)は僕が初めて本気になった女性』だった。ひとつ、小さな問題があった。モートンと一緒に映っていたのは、妹のイングンだったのだ。
マグネとポールとの出会い
「ブリッジスは、僕のずっと先をいっていた。すでに、ポールとマグネは才能あるソングライターで、ものすごく成熟していた。ブリッジスは世界的なレベルのミュージシャンともう少しで肩を並べられるレベルに達していた。ブリッジスのアルバム『Fakkeltog』(1980年リリース)には、とても感銘を受けた。そして僕の状況をがらりと変えることになった。ポールとマグネは、自分たちが行きたいところへ行けるだけの力を持っていた。ノルウェーで彼らのようなバンドにめぐり合えたことはまさに衝撃だったよ。すごく興奮した。すでに障害は何もなかったんだ」
そしてa-haの歴史が始まった。
ローリングストーン誌の取材を断る
a-haは新たに再結成し、『失敗という言葉は選択に無い』という原理にしたがって、国際的に成功を収めた。彼らは、成功を“したら”という言葉は使わなかった。そうではなく、成功する“とき”について話をした。
『Take On Me』はビルボード誌のシングルチャートで1位に達した。1985年9月だったが、いまだに歴史的な瞬間である。ローリングストーン誌のインタビューと、ジョニー・カーソン・ショーの出演を断ったのにもかかわらず、リオ・デ・ジャネイロでは20万人もの観客を前に演奏した。
商業的成功を収めれば収めるほど、ノルウェーのマスコミは彼らを”参らせよう“と躍起になった。マスコミの多くはa-haが大きく失敗することを“望んだ”。しかし、20万人の観客を動員したことはどう考えればよいのだろう…。
ノルウェーのプレス
モートンは、ノルウェーのマスコミが“a-haを参らせよう”とすることに対してある程度幻滅をしたようだ。
「彼らは、自分がどんなことを言っているのかわからないんだよ。事実を見ている人には、僕らがどんなにたくさんのTV番組に出演したか、どのくらいヒット曲をだしたのかわかっている…。ほとんどの人が信じていることは、重要さの順序が逆だということを言っているんだ。それとまったく同時に、プレスは海外で僕らが失敗したかのように書きたてた。それは80年代後半の話だけれど、当時ワーナーは僕らを国際的に最も売れたバンドとしてお祝いしてくれたんだよ。」
「それじゃ、銀行預金明細の上にあぐらをかいている人たちと、プレスとどっちが正しいと思う?馬鹿げているし、クレイジーだよ。世間はわかっていないんだ。いいかい、いつまでも文句ばかりいっているのは間違っているけれど、もう1度だけ言わせてもらう。ありのままに言わないのだったら語るべきではない。僕を全てから楽にして欲しいなんて誰からも望まないし、自分の能力以上に僕を持ち上げて欲しいなんて望んでいないよ。リオでは、僕らはライブコンサートの(※観客動員数の)世界記録を打ち立てた。これは歴史的な事実さ。僕が思いついたことでも他の人が本当だと信じ込んでいることでもないんだ」
「スペードはスペードにしかすぎない。それに慣れなければならないし、水に流さなければならないんだ。例えば、僕が他のみんなと違わないという振りをするのは馬鹿げているよ。僕はもちろんみんなと違う!僕個人の人生は他の人の人生とは違う。それは、僕が良いやつなのか悪いやつなのかという問題じゃないんだ。僕は自分の人生は少しばかり違うと言っているだけだよ」
a-haメンバーの間に飛び散る火花
新聞の見出しを読むと、a-haの再結成は予想通りになりそうだ。しかし、モートンとポール・ワークター・サヴォイの緊張状態は予想以上に高いと推測されている。
オスロの新聞社は、スパイを送りこむような真似をした。彼らは、Rockefellerで行われたSavoyの初ライブの後、モートンとポールの間に“険悪なムード”を感じたと告げている。
モートンが『a-haは友情を基本にしたバンドではない』と言ったのは、こういった推測から距離を置く必要を感じたからだろう。
「プレスには理解できないことだよ。彼らは絶対に理解“しよう”としないんだ。a-haは、友情を基本にしたバンドではない。どのみち友情は必要無かった。それは僕らが友人ではないという意味ではないよ。a-haは、常に“今起こっていること”を基本にしてきた。真剣で、大規模なプロジェクト、ものすごい規模のものを僕らはきちんとこなしていかなければならない。それは、僕らが一緒にやることに基づいているのではなく、それを超越しているだ。僕らはプロジェクトに深く関わっているからこそ一緒にいる。そして、僕らの私生活がある。僕ら個人の友人がいる」
「もちろん、とても親密に一緒に働いているときは、一緒にいろんなことをするし、お互いに情がうつるよ。メディアの頭が鈍いのはそこなんだ。彼らは、子供っぽいマンガの絵で、僕らの関係がどうあるのか描写してきた。プレスが、ポールと僕は互いに戦争状態である、と書きたてるのは、内心自分たちの間違いを隠そうとしているからだと思うね。彼らは逐一すべてをでっちあげた上、まるで“僕ら”がそう言っているようにみせかけるんだよ」
バンドがうまくいくために
「世間は、Savoyの『Daylight Wasting』は僕に平手打ちを食わせている曲なのではと疑っているようだね。そうだったらどうだっていうんだい?そんなことにはまったく興味無いね。a-haは昔も今も国際的に活動しているバンドで、国際的なバンドを導く強い勢いは問題を引き起こし得る。それを目の当たりにするのは構わない。いろんなことが起こるし、自分の感情を率直に表して自由になる必要があるんだ」
「ポールが自分の抱えている問題について詞を書いたとすると、自分のやりかたで言葉にしたいことがあったからだよ。それが、たとえ僕の背中を突き刺すことで“ある”にしてもね。僕はOKだよ。まったく構わない。僕はここに座って、彼が本当にそうする必要があるのかどうかよくわからないでいるけれど、そんなことは特に興味無いね。“そんなことには1秒たりとも惑わされないよ!”彼が活動を続けるのには何を必要としているのかということが問題なんだ。マグネにが活動を続けるのは何が必要なのか、そして僕には何が必要なのか…その後で、バンドが活動を続けるにには何が必要なのかということだよ。そうでなけれど、うまくいかないと思うよ。みんながハッピーで静止した状態を望んだことは1度もない。」
僕にはポールを変える事はできない
「最初は退屈なものだった。そして次は現実離れしていた。偶然に、マグネと僕の関係はポールとの関係とはまったく違うものになった。彼らはまったく違う生き物なんだ。ポールには 自分の物事のバランスをはかる自分の世界があって、それから僕に心のドアを開いてくれた。そのドアはマグネの心のドアとは違うんだ。僕とポールの間はかなり緊張があるよ」
「僕には、ポールの性質を変えることや彼を違う人間にすることはできない。それはまるでしまうまのしまを剥ぐようなものだよ。彼は彼自身だし、曲を書いたり、プロデュースすることができるし、彼らしいことをする。それだけさ。僕はただそれに対応したいだけで、現実の範囲で活動し、生産的であることを学んだ。だけど、そうするためにa-haを出る必要があった」
「自分がa-haの中でひどくくすんでしまっていることに気付いた。最後には、僕はポールがやっていることに貢献したり、理解することができなくなっていた。最後には、ポールはたくさんの責任を背負い、同時にほとんどをコントロールしていた。そしてバンドがうまくいかなくなった。僕は何の価値もないままそこに座っているだけだった。僕にはa-haでできることは何も無かったんだ」とモートンは当時を語った。
妹と一緒にBRAVOに掲載される
ノルウェーのマスコミだけがa-haのコンセプトを誤解していたのではなかった。外国のマスコミからも、a-haは初期の頃から不幸な10代のアイドル/一発屋というイメージをつけられた。それはバンドの懐の深さやクリエイティブであることへの野心とはまったく合い入れないものだった。当時、悲喜劇といえる事件があった。モートンは、ドイツの有名なティーン向け雑誌『Bravo』の表紙に載り、記事の見だしになった。『バンティー(・ベイリー、TOMのヴィデオに出演した女優)は僕が初めて本気になった女性』だった。ひとつ、小さな問題があった。モートンと一緒に映っていたのは、妹のイングンだったのだ。
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2000-05-10
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真っ黒い悪魔の上で燃やされるキリスト <NettPuls PART 1 23/02/99>
訳:Mayumi
彼が、15年間ノルウェーでいちばん有名なポップアイドルであリ続けているのは間違い無い。Aquaのレーネは彼よりもアルバムをたくさん売ったが、彼女はこれとは別のカテゴリーに属する人である。a-haはかつて、そして現在でも(?)たいへん“素晴らしい”ポップバンドだ!a-haはカムバックを計画中と聞いているが、カムバック前の空いている時間に、彼は珍しくPULSのインタビューを受けた。みなさん、なんと彼は全部で2000万枚もアルバムを売った人物なのです!
幼少時代、モートン・ハルケットはエレクトリック・ギターの音を聞いたことはほとんどなかった。しかし、彼には鉄の意志があり、さらに並外れた適応能力を持っていた。ユーライア・ヒープの『Wonderworld(邦題:幻夢劇)』(1975年)のおかげで、モートンは救いようがないくらい音楽にのめりこんだ。そして、音楽の力で世界を変えられると信じるようになった。
「僕らは実際に演奏をすることが少なかった。もっぱら頭のなかでプレイしていたんだ」モートンは、音楽キャリアのスタートを切った頃をそう回想した。
『Spirit Battle』 (精神の闘い)
だからといって、モートンとバンド仲間が、何のヴィジョンも持たない普通の少年だったとはいいきれない。初期の作品『Spirit Battle』は、野心的なミュージカル作品で、アルバムジャケットには、真っ黒な悪魔の上で燃えるキリストが描かれていた!話は70年代にさかのぼる。モートン・ハルケットとGeir Kolbuはオスロのトリニティー教会にある巨大なパイプオルガンを使って演奏した。
アルバムジャケット自体は、音楽が出来あがる大分前から完成していた。アルバムは結局リリースされることは無かった。いかがです、ハルケットさん、1999年の今、同じジャケットでそのレコードをリリースしては?
「それはないよ。自分の頭の中では、何十万人もの観客がいるコンサートでこのアルバムを演奏したんだ。ハハハ!」
ソルジャーブルー(Soldier Blue)
モートン・ハルケットは、70年代の壮麗なプログレッシブ・ロックに深くのめりこんだ。ピンク・フロイドの『The Wall(邦題:ザ・ウォール)』フレディー・マーキュリー(クイーン)そして、ユーライア・ヒープやジェネシスに夢中になった。わたしたちは、(プログレの)長いイントロ、間奏、小休止部分、深刻なテーマ、芝居じみた大げさな演出やコンセプトアルバムにつして語り合った。モートンはプログレに傾倒していたのにもかかわらず、全員の予想と意思に反して180度違った世界へ引きこまれた。一種の自分自身へ課した責め苦とでもいえるかもしれない。生粋のブルースバンドであるソルジャーブルーに参加することになったのである。(英訳者からの注釈:わたしが読んだ
記事のどれもがSouldier Blueと記載していました)
「僕はブルースがおおっぴらに嫌いだった。ブルースはものすごく退屈で、のんびりしていて、繰り返しばかりで、どちらかというと知性に乏しく興味を引かなかった。ソルジャーブルーは、最初伝統的な古いブルースばかり演奏していた。ブルースへの反発がモチベーションになってやってみることになったんだ。理解するようになって、僕の中で何かが起こった。ブルースをやってみることは、僕にとって必要な小さな変化だったんだ。それがきっかけになって、今やっていることをやることになったのだからね」
「とても微妙なことで、小さな決断だったんだ。ある意味、僕の中の原動力が影響を及ぼしたんだと思う。僕は、自分がまったく興味が無くて、嫌いだったブルースをやることに同意した。“自分の”要望や“自分の”流儀からの反応は何も感じなかったんだ。ブルースを歌うことは、恐ろしく退屈だった」
「同時に、自分が理解していなかったものも存在するに違いないということがわかった。僕の心の受容体がどこかおかしかったんだろうね。僕は口をつぐんで、他のことには深入りせず、やるべきことだけをやった。リハーサルにちゃんと参加して、良い子のように歌った。まるで丁稚奉公を卒業するための試験を受けているようだったよ。それまでは、僕はいつでもボスだったし、まるで自分が全てわかっているように振舞ったから、周りのみんなをかっかさせていたよ」モートンは当時を回想する。
モートンはわたしをおちょくっている!
ソルジャーブルー時代に振りかえりながら、彼にはたいてい言い争いで決定的な一言(それが正しいか正しくないかはさておき)を放つ才能があるという、多くの公言を証明するエピソードを思い出した。ある高名な白人ブルースシンガー(女性)は、白人がブルースを歌うのはとても難しいということについて話をしていた。そのシンガーの名前はここでは伏せるが、そのことで10年間も悩んでいたと言った。モートンは、その言葉に反論して、7、8ヶ月で自分はそれを乗り越えられると明言した。
「ある曲について話をしていたんだ。それは『A Change is Gonna Come』という曲で、彼らに言わせると、白人には歌えないという。そんなのくだらない主張だと思った。個人的に実際白人がその曲を歌えるかどうか知らなかったけれどね。そういうことではないんだ。黒人、白人とか関係無い。全く関係無い。多くの黒人がどのような大人になるかは、幼少時代の環境が大きく影響しているということは事実だよ。しかし、同じような経験をしている薄ピンク色の金髪の少年にも起こることだといえる。僕にとっては、そういった違いが事実だと思うこと自体馬鹿げているよ」
このエピソードは、女性ブルースシンガーが、『モートン・ハルケットはわたしを“おちょくっている”!』と叫んだところで終わりを告げた。
『Spirit Battle』 (精神の闘い)
だからといって、モートンとバンド仲間が、何のヴィジョンも持たない普通の少年だったとはいいきれない。初期の作品『Spirit Battle』は、野心的なミュージカル作品で、アルバムジャケットには、真っ黒な悪魔の上で燃えるキリストが描かれていた!話は70年代にさかのぼる。モートン・ハルケットとGeir Kolbuはオスロのトリニティー教会にある巨大なパイプオルガンを使って演奏した。
アルバムジャケット自体は、音楽が出来あがる大分前から完成していた。アルバムは結局リリースされることは無かった。いかがです、ハルケットさん、1999年の今、同じジャケットでそのレコードをリリースしては?
「それはないよ。自分の頭の中では、何十万人もの観客がいるコンサートでこのアルバムを演奏したんだ。ハハハ!」
ソルジャーブルー(Soldier Blue)
モートン・ハルケットは、70年代の壮麗なプログレッシブ・ロックに深くのめりこんだ。ピンク・フロイドの『The Wall(邦題:ザ・ウォール)』フレディー・マーキュリー(クイーン)そして、ユーライア・ヒープやジェネシスに夢中になった。わたしたちは、(プログレの)長いイントロ、間奏、小休止部分、深刻なテーマ、芝居じみた大げさな演出やコンセプトアルバムにつして語り合った。モートンはプログレに傾倒していたのにもかかわらず、全員の予想と意思に反して180度違った世界へ引きこまれた。一種の自分自身へ課した責め苦とでもいえるかもしれない。生粋のブルースバンドであるソルジャーブルーに参加することになったのである。(英訳者からの注釈:わたしが読んだ
記事のどれもがSouldier Blueと記載していました)
「僕はブルースがおおっぴらに嫌いだった。ブルースはものすごく退屈で、のんびりしていて、繰り返しばかりで、どちらかというと知性に乏しく興味を引かなかった。ソルジャーブルーは、最初伝統的な古いブルースばかり演奏していた。ブルースへの反発がモチベーションになってやってみることになったんだ。理解するようになって、僕の中で何かが起こった。ブルースをやってみることは、僕にとって必要な小さな変化だったんだ。それがきっかけになって、今やっていることをやることになったのだからね」
「とても微妙なことで、小さな決断だったんだ。ある意味、僕の中の原動力が影響を及ぼしたんだと思う。僕は、自分がまったく興味が無くて、嫌いだったブルースをやることに同意した。“自分の”要望や“自分の”流儀からの反応は何も感じなかったんだ。ブルースを歌うことは、恐ろしく退屈だった」
「同時に、自分が理解していなかったものも存在するに違いないということがわかった。僕の心の受容体がどこかおかしかったんだろうね。僕は口をつぐんで、他のことには深入りせず、やるべきことだけをやった。リハーサルにちゃんと参加して、良い子のように歌った。まるで丁稚奉公を卒業するための試験を受けているようだったよ。それまでは、僕はいつでもボスだったし、まるで自分が全てわかっているように振舞ったから、周りのみんなをかっかさせていたよ」モートンは当時を回想する。
モートンはわたしをおちょくっている!
ソルジャーブルー時代に振りかえりながら、彼にはたいてい言い争いで決定的な一言(それが正しいか正しくないかはさておき)を放つ才能があるという、多くの公言を証明するエピソードを思い出した。ある高名な白人ブルースシンガー(女性)は、白人がブルースを歌うのはとても難しいということについて話をしていた。そのシンガーの名前はここでは伏せるが、そのことで10年間も悩んでいたと言った。モートンは、その言葉に反論して、7、8ヶ月で自分はそれを乗り越えられると明言した。
「ある曲について話をしていたんだ。それは『A Change is Gonna Come』という曲で、彼らに言わせると、白人には歌えないという。そんなのくだらない主張だと思った。個人的に実際白人がその曲を歌えるかどうか知らなかったけれどね。そういうことではないんだ。黒人、白人とか関係無い。全く関係無い。多くの黒人がどのような大人になるかは、幼少時代の環境が大きく影響しているということは事実だよ。しかし、同じような経験をしている薄ピンク色の金髪の少年にも起こることだといえる。僕にとっては、そういった違いが事実だと思うこと自体馬鹿げているよ」
このエピソードは、女性ブルースシンガーが、『モートン・ハルケットはわたしを“おちょくっている”!』と叫んだところで終わりを告げた。
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2000-05-10
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母親としてのわたしの人生 <Elle 2000>
訳:Mayumi
“母親”という言葉を辞書で引いてみると、『出産した子供と関わっている女性』とあります。まだ子供を産んだことのない、女性であっても母親になったことがない人にとっては、母親の役割は少々ミステリアス。いろんな疑問が浮かびます。母親の役割ってみんなが言うとおりのものなの?本当に、みんなが信じている通りになるの?母親に‘なりたい’と最初からわかっている人もいるの?そ
れとも、自然のなりゆきでなるの?子供たちのことをこういう風に感じたり、考えなければならないというルールは存在するの?
Elle誌は、出産経験のある4人の女性をお招きして、出産、子供たち、そして母親とは何かということについて語ってもらいました。4人のお母さんたちの子供は、それぞれ違う年頃で、兄弟の数や性別もちがいます。そして、母親は結婚している人、離婚している人、別居中の人、恋人と同居中の人とさまざまです。4つのまったく違う‘母親’の話をお届けします。
名前: Camilla Malmquist Harket (35才)
キャリア: 女優/歌手
子供: Jacob(11才)、Jonathan(9才半)、Tomine(7才)
現在:子供たちとオスロに在住
中学2年生の時、出産している場面のムービーを見せられたの。見終わった後、(出産は)絶対避けて通ろうと決めたわ!だけど、思った通りにはならなかったわね。最初の出産のとき、わたしたち、何にも準備していなくて、出産についての心構えがまったくできていなかったの。出産に関するクラスなどを取ったこともなかった。陣痛が始まったとき、『出産について』というパンフレットを真剣に、慌てて読んだわ。それでも、Jacobが生まれたとき、アドレナリンが最高に回っていて、今すぐもっと子供を欲しい!って思ったの。子供を自分の中に宿すって、ホント、最高の体験よ。今でも自分の中に(また妊娠・出産したいという)欲求があるの。まだ自分の本能が満足しきっていないのよね。
出産した場所はイギリスだった。あの国で6年間暮らしたの。女優として売り出している最中だったけど、わたしにとって子供たちと家にいることは、とても自然なことだった。もちろん、もっと外へ出かけてキャリアウーマンとして、自分を売り込むエネルギーがあったらよかったのにと思うわ。だけど、4年間に3人も続けて産んだのよ。母乳はもれてくるし、ホルモン・デラックスの状態。それがわたしのほとんど全てだったわ。しばらくの間は、授乳、オムツ替え、夕食のしたく、そしてまた出産よ。子供を学校へ送り迎えして、洗濯して、子供の涙を拭いてあげる、そして遠く離れていることが多い、ポップ・スターの夫を出迎えるの。彼は南アメリカのツアーに出ていて、あちこちに出かけては帰ってくる。彼は知らない人たちや、彼に恋してしまっている若い女のコたちにいつも囲まれているわ。モートンは、自分の家族をマスコミから遠く切り離したい、と強く願っていたの。それは十分に理解できるわ。でもある意味、世間からわたしたちを‘隠しすぎ’てしまったのね。ついに、わたしは自信をなくしてしまったの。我を見失ってしまって、自分が誰なのかわからなくなってしまった。でも後になって、残念なことに、わたしも恋人のレイフ(※Leif Johannesen。カミーラに歌うコトを勧め、彼女のアルバム『First Breath』では楽器を演奏しています。a-haのツアーバンドの一員でもありました)に同じことをしてしまった。人から見られたり、こそこそ噂話をされることを嫌って、他人の目につくときには、自分の恋人を気にかけていないように振舞ってしまうのね。外では手をつながないとかね。わざとやったわけではないんだけど、レイフをとても傷つけてしまったのは事実よ。そして今は、恋人もいない、悲惨な状態でここに座っている。こんなときに、子供たちが近くにいてくれることはとてもありがたいし、助けになるわ。深い悲しみに沈んでなどいられない。賢くて、可愛らしい、元気いっぱいの3人の子供たちがいるのですもの。
1995年に私たちはオスロに引っ越してきた。子供たちは、ひとりひとりまったく違うのよ。
Jakobは一番年上のせいか、しっかりしているの。考え深くて、穏やかで、繊細、そしてとてもプライベートなところがある。
次のJonathanは、のびのびと自発的。いつも歌を歌っている。いろんな音を立てたり、いつも何かを探しているみたい。あんまり想像力豊かだから、みんなをはらはらさせているわ。
末っ子のTomineは今、成長著しい時期ね。とても感情移入しやすくて、みんながどうしているかということにいつも気を取られている。とても活気があって、ユーモアのセンスもあるわ。
子供たちが言ったおもしろいことや賢いと思ったことを書きとめておくノートがあるの。時々、子供たちに読んで聞かせてやるんだけど、死ぬほど笑い転げるのよ。まったく、なんて良い子たちなんだろうと誇りに思うわ!3人ともとても社交的なの。いろんな人と会うことに慣れているのね。だからいままで会ったことがない人と会っても怖がらないし、気楽なものよ。周りからちょっと甘やかされてしまうのは避けられないことなのよね。よく一緒に旅行もしたわ。他の子が持っていないものをうちの子供たちは持っている。だけど、有名人の両親を持つということは、子供たちにとって重荷だと思うの。Jakobは、イメージを気にしているから、自分の父親がすごく有名だってことに、きっと気がついていると思う。子供たちがみんなの期待にこたえていくのは大変よ。
家庭の外で働いている母親をとても尊敬するわ。でも3人の小さな子供を抱えて、オーディションに行ったり、常にクリエイティブで、自分に自信たっぷりでいることはできなかったわね。今、子供たちは自分の人生を歩み始めて、前のようにわたしを(べったりと)必要ではなくなった。だからまた外に出られそうよ。
子供たちは本当にやりたいことを選んでやればいいと思う。それが何であれ、サポートするつもりよ。たとえ、アーティストになりたいと言ってもね。子供たちは才能豊かよ。夢中になるものがあったら、あきらめないで追い求めなければね!
※H+D MLにポストされたモノを翻訳しました。(転載許可確認済)英訳:Ingerid White
中学2年生の時、出産している場面のムービーを見せられたの。見終わった後、(出産は)絶対避けて通ろうと決めたわ!だけど、思った通りにはならなかったわね。最初の出産のとき、わたしたち、何にも準備していなくて、出産についての心構えがまったくできていなかったの。出産に関するクラスなどを取ったこともなかった。陣痛が始まったとき、『出産について』というパンフレットを真剣に、慌てて読んだわ。それでも、Jacobが生まれたとき、アドレナリンが最高に回っていて、今すぐもっと子供を欲しい!って思ったの。子供を自分の中に宿すって、ホント、最高の体験よ。今でも自分の中に(また妊娠・出産したいという)欲求があるの。まだ自分の本能が満足しきっていないのよね。
出産した場所はイギリスだった。あの国で6年間暮らしたの。女優として売り出している最中だったけど、わたしにとって子供たちと家にいることは、とても自然なことだった。もちろん、もっと外へ出かけてキャリアウーマンとして、自分を売り込むエネルギーがあったらよかったのにと思うわ。だけど、4年間に3人も続けて産んだのよ。母乳はもれてくるし、ホルモン・デラックスの状態。それがわたしのほとんど全てだったわ。しばらくの間は、授乳、オムツ替え、夕食のしたく、そしてまた出産よ。子供を学校へ送り迎えして、洗濯して、子供の涙を拭いてあげる、そして遠く離れていることが多い、ポップ・スターの夫を出迎えるの。彼は南アメリカのツアーに出ていて、あちこちに出かけては帰ってくる。彼は知らない人たちや、彼に恋してしまっている若い女のコたちにいつも囲まれているわ。モートンは、自分の家族をマスコミから遠く切り離したい、と強く願っていたの。それは十分に理解できるわ。でもある意味、世間からわたしたちを‘隠しすぎ’てしまったのね。ついに、わたしは自信をなくしてしまったの。我を見失ってしまって、自分が誰なのかわからなくなってしまった。でも後になって、残念なことに、わたしも恋人のレイフ(※Leif Johannesen。カミーラに歌うコトを勧め、彼女のアルバム『First Breath』では楽器を演奏しています。a-haのツアーバンドの一員でもありました)に同じことをしてしまった。人から見られたり、こそこそ噂話をされることを嫌って、他人の目につくときには、自分の恋人を気にかけていないように振舞ってしまうのね。外では手をつながないとかね。わざとやったわけではないんだけど、レイフをとても傷つけてしまったのは事実よ。そして今は、恋人もいない、悲惨な状態でここに座っている。こんなときに、子供たちが近くにいてくれることはとてもありがたいし、助けになるわ。深い悲しみに沈んでなどいられない。賢くて、可愛らしい、元気いっぱいの3人の子供たちがいるのですもの。
1995年に私たちはオスロに引っ越してきた。子供たちは、ひとりひとりまったく違うのよ。
Jakobは一番年上のせいか、しっかりしているの。考え深くて、穏やかで、繊細、そしてとてもプライベートなところがある。
次のJonathanは、のびのびと自発的。いつも歌を歌っている。いろんな音を立てたり、いつも何かを探しているみたい。あんまり想像力豊かだから、みんなをはらはらさせているわ。
末っ子のTomineは今、成長著しい時期ね。とても感情移入しやすくて、みんながどうしているかということにいつも気を取られている。とても活気があって、ユーモアのセンスもあるわ。
子供たちが言ったおもしろいことや賢いと思ったことを書きとめておくノートがあるの。時々、子供たちに読んで聞かせてやるんだけど、死ぬほど笑い転げるのよ。まったく、なんて良い子たちなんだろうと誇りに思うわ!3人ともとても社交的なの。いろんな人と会うことに慣れているのね。だからいままで会ったことがない人と会っても怖がらないし、気楽なものよ。周りからちょっと甘やかされてしまうのは避けられないことなのよね。よく一緒に旅行もしたわ。他の子が持っていないものをうちの子供たちは持っている。だけど、有名人の両親を持つということは、子供たちにとって重荷だと思うの。Jakobは、イメージを気にしているから、自分の父親がすごく有名だってことに、きっと気がついていると思う。子供たちがみんなの期待にこたえていくのは大変よ。
家庭の外で働いている母親をとても尊敬するわ。でも3人の小さな子供を抱えて、オーディションに行ったり、常にクリエイティブで、自分に自信たっぷりでいることはできなかったわね。今、子供たちは自分の人生を歩み始めて、前のようにわたしを(べったりと)必要ではなくなった。だからまた外に出られそうよ。
子供たちは本当にやりたいことを選んでやればいいと思う。それが何であれ、サポートするつもりよ。たとえ、アーティストになりたいと言ってもね。子供たちは才能豊かよ。夢中になるものがあったら、あきらめないで追い求めなければね!
※H+D MLにポストされたモノを翻訳しました。(転載許可確認済)英訳:Ingerid White
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2000-05-10
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カミーラ・マルムクヴィスト=ハルケットが語る真実 <Tique 1994>
インタビュー&文:Tone Tobianson 訳:Mayumi
彼女はラプンツェル(童話のお姫様)のように塔の中に腰掛け、長い髪を垂らしてモートンだけを待っていた。彼女は家庭に入り、メディアやカメラマンから遠ざかっていた。彼女の美しさと知性はモートンだけのものだった。そして今、彼女はあまり家に帰ってこない黒いベンツの騎士を待つのに飽き飽きしているという。彼は騎士?王子様?それともトロール?いったい誰にわかるのだろうか?
カミーラは外の世界へ出て、自らの権利のために戦おうとしている。
彼女の第一印象は華奢であるということだった。まるで風が吹けば飛んでいってしまいそうだ。モートンを一瞬にして惹きつけた、トレードマークである長い金色の髪が、彼女の華奢な体からかもし出すはかなげで今にも壊れてしまいそうな雰囲気をより強調している。彼女はまさに丘の上のお姫様のようだった。
そしてお姫様は待ち続けている…でもその姿にだまされてはいけない。この7年間、カミーラはアイドルである夫の影に隠れて生活してきた。しかし彼女自身の意思で、塔の中に閉じ篭りモートンのためだけに髪を垂らしていたのだ。
7年間で、Jakob(5歳)、Johnathan(3歳)、Tomine(1歳)を授かった。一番小さなTomineの名前は、モートンの祖母の名前から名づけられた。王子はときどき家に帰ってきた。しかし、時に彼らはまるで兄妹のように生活しなければならなかった。モートンは家族よりもキャリアを優先した。カミーラは幸せではなく、孤独だった。苛立ちが募り、火山は爆発寸前だった。
カミーラは、女優としてのキャリアをしばらく封印していたが、今再開しようとしている。再びカメラの前で、自分を表現する必要性を感じているのだ。カミーラは17歳のころ、スウェーデンではかなり名前を知られていた。そのころ、テレビドラマシリーズの『Lykke til』(※「グッドラック」という意味)、そして後に『Xerxes』に出演した。ノルウェーのテレビ局、NRKでも放映されていたシリーズである。17歳にして、カミーラは初めてスポットライトにあたる経験をした。彼女の中で何かが育っていった。カミーラは強い女性だ。そして彼女自身も自分の強さを信じている。
T:あなたもスターの人生がどんなものか経験しているのに、長年モートンの影に隠れた生活はどんなものでしたか?
C:自分の人生がどう転んでいくか自分で決めることはできないわ。偶然に進んでいくものなのよ。どの女性もどんな男性とも子供を作ることができる。そしてある軌道に乗るのよ。Jakobを妊娠したとき、わたしの体は赤ちゃんを必要としていた。計画的に妊娠するつもりだったら、何年も待ってから妊娠したかもしれないわね。子供を作るのに遅くなりすぎなければね。3人とも計画的に妊娠したわけではないの。でも、どの子ができたときも嬉しかったわ。
T:また生物の授業を受ける必要を感じませんか?すべてをあきらめなければならなくなって、苦々しく思ったりしませんか?
C:わたしは状況をそのまま受け止めたわ。モートンは当時、とても大変な状況だったの。わたしよりもずっとね。モートンに「今、家にいてちょうだい」」なんて言えなかった。それは無理な話だったわ。わたしは子供たちと4年以上家にいたから、動きが早い映画界からはすっかり遠ざかってしまった。また新しいキャリアを積むのはとても大変なことよ。でもわたしたち女性は、すべて男性のせいにするのをやめるべきだとも思うのよ。
T:モートンはとても家庭的な男性のようでしたね。特に、あなたとお子さんたちをマスコミから守ろうとするときなどは特にそう見えました。それとも一種のコントロールだったのかもしれないですね?
C:確かにモートンは家父長制の家庭出身だわ。彼はそういう世代の人だし、そこで育ち、それを感じてきたと思う。でも彼はすごく変わったわ。夫婦関係が常に同じではなければならないとは思わない。わたしはフェミニストではないけれど、これ以上伝統的な女性の役割に甘んじているつもりはないわ。いまどき誰がそんなものに甘んじているのかしら?時代の流れで人は変わるわ。長年家にいた理由は、子供たちがわたしの犠牲になるのを避けたかったからよ。子供たちをとても愛している。何年もの間子供たちと一緒に過ごせたことを誇りに思うし、嬉しく感じているわ。世界中の何よりも子供たちを愛しているの。もしかしたら愛しすぎているのかもしれないわね。どの母親も多かれ少なかれ同じように感じていると思うけれど。
T:それでは子供たちに縛られている間、誰かのために仕えているという気にはならなかったのですね。
C:縛られているという風には感じなかったけれど、でもいつもただ座っているだけで同じことの繰り返しにとらわれていることと葛藤しなければならなかったわ。
T:モートンがお金を稼いでいるからそうしなければならなかったのですか?それが(主婦の生活を)やめることになった大きな理由なのでしょうか?
C:確かに彼の(一家の主としての)『絶え間ない影響力』のせいよ。それは彼が(子供のころから)受け継いできたものだから。でもわたしもいくつかコマーシャルの仕事をして、それなりのお金を受け取ったわ。収入のほとんどがモートンの働きからきているのは事実よ。でもわたしも自分で収入を得ることはできるわ。収入の多くが彼の働きからだとしてもね。自分で収入を得られるのは、自分に自信をつけるためにもいいことね。たとえほんのわずかな金額でも。
アムステルダムの空港で、長い金髪の女性が、監督と一緒にストックホルム行きの飛行機を待っていた。
モートン・ハルケットは、ボディーガードと一緒に座って同じフライトを待っていた。モートンは常に護衛されていることに閉口していた。背後にベビーシッター付では誰かと戯れることはとてもできない。しかし、今このブロンドの女性が目の前にいるのだ。ボディーガードが彼女に声をかけることを拒否したので、モートンは自から近づいて話しかけた。
モートンはカミーラをa-haのコンサートに招待した。
一週間後二人は電話で話をした。そして、カミーラの人生はこのときを境に大きく変わった。
T:お子さんたちをクリスチャンとして育てていますか?
C:わたしたちはそういうことを話し合わないのよ。わたしたちは食事の前にお祈りをするし、モートンは寝る前にお祈りをするのが好きよ。私たちの家はキリストのご加護の元にある…。
T:あなたは神様を信じていますか?
C:わたしはキリストを信じています。
T:あなたは社交的な人ですか?お祝い事は好きですか?
C:ええ!お祝い事は大好きよ。モートンとわたしはそこのところが正反対なのよ。Tomineの洗礼式のときに大きなパーティーを開いたの。モートンは静かに生活することを好むわ。すでに十分すぎるくらい外で揉まれてきているから。
T:あなたが家でモートンの帰りをじっと待っていてくれなくなることについてモートンはどう考えていますか?
C:モートンは素晴らしいことだと思っているわ。最初はそうでもなかったけれど、わたしが信じることを理解してくれて納得したようよ。
T:10年後のあなたはどうなっていると思いますか?子供が12人くらいいて…。
C:いいえ!もう妊娠しないように生物の授業をとりたいくらいよ。
T:モートンがカミーラと泥棒の映画で役をもらったことを羨ましく思いましたか?
C:思わなかったわ。モートンはマスコミの標的だから、映画に関してすべてモートンに注目が集まったわ。それは役をもらう前からそうだったけれど。モートンは演技するより歌うほうが得意だと思うわ。
T:自分で歌うことを考えたことはありますか?
C:やってみたけれど止めたわ。そしてわたしは世界一のボーカリストと結婚したのよ。
T:ツアー中に、モートンに近づこうとするグルーピーや、積極的な女の子たちについてはどうですか?
C:そのことに関してあまり考えたことはなかったわ。今まではね。物事には限界があるわ。毎日いろんな情報が耳に入る。とても腹立たしいものよ。ファンレターを読むじゃない。その中にモートンに毎日手紙を書いてくる女の子がいたの!一日も欠かさずによ!今でもバージンだという医者の証明書つきでね。誰がそんなものを信じるものですか!止めて欲しいわ。彼女たちはモートン個人を知っていると思い込んでいるのよ。いいかげんにして!!ある日、フランス人の女の子がドアの前に立っていて、モートンに自分のために歌を歌ってくれとせがんだの。そして「キスして」と言ったのよ。彼のすぐ後ろにわたしが立っているのに。ハグしてあげるから帰ってくれとモートンは言ったわ。みんなの頭の中は一体どうなっているのかしら?ポールとマグネは曲を書き、モートンがそれを歌う。彼らを個人的に知っていると思い込むのはよくないわ。モートンに家族がいることにすら気づいていないファンもいるのよ。
T:マスコミはそのことに気づいていますか?
C:新聞にはばかげたことがたくさん載るわ。読者は興味を抱くし、それを信じ込む。いつもモートンとわたしについて書かれた記事を読むとわたしもまったく知らないことが書かれているのよ。
T:モートンからもらった一番の贈り物は何ですか?
C:子供たちよ。
T:あなたを表現するとしたら?
C:モートンはわたしを『ハルダー』(教会で人間の男性と結婚式をあげて最高の妻になる美しい金髪のトロールの女性)と呼ぶわ。ハルダーと刻まれたブレスレットを持っているの。(自分をどう表現できるか)わたしにはわからないわ。
T:最近モートンと二人きりになったのはいつでしたか?
C:ずいぶん長いこと二人きりになってないけれど、もうすぐ二人でロサンゼルスに行くのよ。Tomineも連れて行くのだけれど。
3人目の子供を妊娠中のある晩、カミーラは夜中に起き上がった。あたりは血だらけだった。モートンを起こそうとしたが、彼はなかなか目覚めない。やっと目をあけたモートンにカミーラは何が起こったか告げた。モートンはとても慌てて、ベッドから飛び起きた。すでに陣痛が始まっており、カミーラは早産の進行を遅らせるためにできるだけのことをした。二人はモートンのスポーツカーで夜中に猛スピードで病院へ向かった。「もっと早く!」「これ以上スピードがでないよ!」
病院で、彼女は4週間ベッドに横たわらなければならなかった。もし出産が早まればカミーラの体は危険だった。4週間後合併症を起こして、医者は帝王切開をすることに決めた。カミーラは二度と目を醒ますことがないのではないかと怯えた。
「子供たちに愛していると伝えておいて」彼女はモートンにそう懇願した。
次に記憶にあるのはモートンだった。カミーラが目をさましたとき、モートンは耳元でささやいた。「カミーラ、僕らに女の子が授かったよ」
T:モートンはとても無礼な人のようですね…。
C:いいえ!ぜんぜん無礼ではないわ!彼はとても謙虚な人よ。そういう話し方なだけよ。
T:モートンのキャリアを振り返ったとき、彼を誇りに思いますか?
C:思うわ!わたしが妻だからというわけではなくて。妻!なんて変な言葉なのでしょう。彼の恋人でいるほうがいいわ。彼を愛しています。
撮影所に、3人の子供をつれた長い金髪の女性があらわれてから1時間以上経った。子供の一人は、おむつなど家族の必需品をこまごまと載せたベビーカーに乗っていた。Tomineは夜通し起きていて泣いていた。2人の男の子はレモネードを飲みながらニンジャ・タートルズのビデオゲームで遊んでいた。
今日は長い一日になりそうだ。カミーラはカメラの前にいる。それは彼女が望むことなのだ!
7年間で、Jakob(5歳)、Johnathan(3歳)、Tomine(1歳)を授かった。一番小さなTomineの名前は、モートンの祖母の名前から名づけられた。王子はときどき家に帰ってきた。しかし、時に彼らはまるで兄妹のように生活しなければならなかった。モートンは家族よりもキャリアを優先した。カミーラは幸せではなく、孤独だった。苛立ちが募り、火山は爆発寸前だった。
カミーラは、女優としてのキャリアをしばらく封印していたが、今再開しようとしている。再びカメラの前で、自分を表現する必要性を感じているのだ。カミーラは17歳のころ、スウェーデンではかなり名前を知られていた。そのころ、テレビドラマシリーズの『Lykke til』(※「グッドラック」という意味)、そして後に『Xerxes』に出演した。ノルウェーのテレビ局、NRKでも放映されていたシリーズである。17歳にして、カミーラは初めてスポットライトにあたる経験をした。彼女の中で何かが育っていった。カミーラは強い女性だ。そして彼女自身も自分の強さを信じている。
T:あなたもスターの人生がどんなものか経験しているのに、長年モートンの影に隠れた生活はどんなものでしたか?
C:自分の人生がどう転んでいくか自分で決めることはできないわ。偶然に進んでいくものなのよ。どの女性もどんな男性とも子供を作ることができる。そしてある軌道に乗るのよ。Jakobを妊娠したとき、わたしの体は赤ちゃんを必要としていた。計画的に妊娠するつもりだったら、何年も待ってから妊娠したかもしれないわね。子供を作るのに遅くなりすぎなければね。3人とも計画的に妊娠したわけではないの。でも、どの子ができたときも嬉しかったわ。
T:また生物の授業を受ける必要を感じませんか?すべてをあきらめなければならなくなって、苦々しく思ったりしませんか?
C:わたしは状況をそのまま受け止めたわ。モートンは当時、とても大変な状況だったの。わたしよりもずっとね。モートンに「今、家にいてちょうだい」」なんて言えなかった。それは無理な話だったわ。わたしは子供たちと4年以上家にいたから、動きが早い映画界からはすっかり遠ざかってしまった。また新しいキャリアを積むのはとても大変なことよ。でもわたしたち女性は、すべて男性のせいにするのをやめるべきだとも思うのよ。
T:モートンはとても家庭的な男性のようでしたね。特に、あなたとお子さんたちをマスコミから守ろうとするときなどは特にそう見えました。それとも一種のコントロールだったのかもしれないですね?
C:確かにモートンは家父長制の家庭出身だわ。彼はそういう世代の人だし、そこで育ち、それを感じてきたと思う。でも彼はすごく変わったわ。夫婦関係が常に同じではなければならないとは思わない。わたしはフェミニストではないけれど、これ以上伝統的な女性の役割に甘んじているつもりはないわ。いまどき誰がそんなものに甘んじているのかしら?時代の流れで人は変わるわ。長年家にいた理由は、子供たちがわたしの犠牲になるのを避けたかったからよ。子供たちをとても愛している。何年もの間子供たちと一緒に過ごせたことを誇りに思うし、嬉しく感じているわ。世界中の何よりも子供たちを愛しているの。もしかしたら愛しすぎているのかもしれないわね。どの母親も多かれ少なかれ同じように感じていると思うけれど。
T:それでは子供たちに縛られている間、誰かのために仕えているという気にはならなかったのですね。
C:縛られているという風には感じなかったけれど、でもいつもただ座っているだけで同じことの繰り返しにとらわれていることと葛藤しなければならなかったわ。
T:モートンがお金を稼いでいるからそうしなければならなかったのですか?それが(主婦の生活を)やめることになった大きな理由なのでしょうか?
C:確かに彼の(一家の主としての)『絶え間ない影響力』のせいよ。それは彼が(子供のころから)受け継いできたものだから。でもわたしもいくつかコマーシャルの仕事をして、それなりのお金を受け取ったわ。収入のほとんどがモートンの働きからきているのは事実よ。でもわたしも自分で収入を得ることはできるわ。収入の多くが彼の働きからだとしてもね。自分で収入を得られるのは、自分に自信をつけるためにもいいことね。たとえほんのわずかな金額でも。
アムステルダムの空港で、長い金髪の女性が、監督と一緒にストックホルム行きの飛行機を待っていた。
モートン・ハルケットは、ボディーガードと一緒に座って同じフライトを待っていた。モートンは常に護衛されていることに閉口していた。背後にベビーシッター付では誰かと戯れることはとてもできない。しかし、今このブロンドの女性が目の前にいるのだ。ボディーガードが彼女に声をかけることを拒否したので、モートンは自から近づいて話しかけた。
モートンはカミーラをa-haのコンサートに招待した。
一週間後二人は電話で話をした。そして、カミーラの人生はこのときを境に大きく変わった。
T:お子さんたちをクリスチャンとして育てていますか?
C:わたしたちはそういうことを話し合わないのよ。わたしたちは食事の前にお祈りをするし、モートンは寝る前にお祈りをするのが好きよ。私たちの家はキリストのご加護の元にある…。
T:あなたは神様を信じていますか?
C:わたしはキリストを信じています。
T:あなたは社交的な人ですか?お祝い事は好きですか?
C:ええ!お祝い事は大好きよ。モートンとわたしはそこのところが正反対なのよ。Tomineの洗礼式のときに大きなパーティーを開いたの。モートンは静かに生活することを好むわ。すでに十分すぎるくらい外で揉まれてきているから。
T:あなたが家でモートンの帰りをじっと待っていてくれなくなることについてモートンはどう考えていますか?
C:モートンは素晴らしいことだと思っているわ。最初はそうでもなかったけれど、わたしが信じることを理解してくれて納得したようよ。
T:10年後のあなたはどうなっていると思いますか?子供が12人くらいいて…。
C:いいえ!もう妊娠しないように生物の授業をとりたいくらいよ。
T:モートンがカミーラと泥棒の映画で役をもらったことを羨ましく思いましたか?
C:思わなかったわ。モートンはマスコミの標的だから、映画に関してすべてモートンに注目が集まったわ。それは役をもらう前からそうだったけれど。モートンは演技するより歌うほうが得意だと思うわ。
T:自分で歌うことを考えたことはありますか?
C:やってみたけれど止めたわ。そしてわたしは世界一のボーカリストと結婚したのよ。
T:ツアー中に、モートンに近づこうとするグルーピーや、積極的な女の子たちについてはどうですか?
C:そのことに関してあまり考えたことはなかったわ。今まではね。物事には限界があるわ。毎日いろんな情報が耳に入る。とても腹立たしいものよ。ファンレターを読むじゃない。その中にモートンに毎日手紙を書いてくる女の子がいたの!一日も欠かさずによ!今でもバージンだという医者の証明書つきでね。誰がそんなものを信じるものですか!止めて欲しいわ。彼女たちはモートン個人を知っていると思い込んでいるのよ。いいかげんにして!!ある日、フランス人の女の子がドアの前に立っていて、モートンに自分のために歌を歌ってくれとせがんだの。そして「キスして」と言ったのよ。彼のすぐ後ろにわたしが立っているのに。ハグしてあげるから帰ってくれとモートンは言ったわ。みんなの頭の中は一体どうなっているのかしら?ポールとマグネは曲を書き、モートンがそれを歌う。彼らを個人的に知っていると思い込むのはよくないわ。モートンに家族がいることにすら気づいていないファンもいるのよ。
T:マスコミはそのことに気づいていますか?
C:新聞にはばかげたことがたくさん載るわ。読者は興味を抱くし、それを信じ込む。いつもモートンとわたしについて書かれた記事を読むとわたしもまったく知らないことが書かれているのよ。
T:モートンからもらった一番の贈り物は何ですか?
C:子供たちよ。
T:あなたを表現するとしたら?
C:モートンはわたしを『ハルダー』(教会で人間の男性と結婚式をあげて最高の妻になる美しい金髪のトロールの女性)と呼ぶわ。ハルダーと刻まれたブレスレットを持っているの。(自分をどう表現できるか)わたしにはわからないわ。
T:最近モートンと二人きりになったのはいつでしたか?
C:ずいぶん長いこと二人きりになってないけれど、もうすぐ二人でロサンゼルスに行くのよ。Tomineも連れて行くのだけれど。
3人目の子供を妊娠中のある晩、カミーラは夜中に起き上がった。あたりは血だらけだった。モートンを起こそうとしたが、彼はなかなか目覚めない。やっと目をあけたモートンにカミーラは何が起こったか告げた。モートンはとても慌てて、ベッドから飛び起きた。すでに陣痛が始まっており、カミーラは早産の進行を遅らせるためにできるだけのことをした。二人はモートンのスポーツカーで夜中に猛スピードで病院へ向かった。「もっと早く!」「これ以上スピードがでないよ!」
病院で、彼女は4週間ベッドに横たわらなければならなかった。もし出産が早まればカミーラの体は危険だった。4週間後合併症を起こして、医者は帝王切開をすることに決めた。カミーラは二度と目を醒ますことがないのではないかと怯えた。
「子供たちに愛していると伝えておいて」彼女はモートンにそう懇願した。
次に記憶にあるのはモートンだった。カミーラが目をさましたとき、モートンは耳元でささやいた。「カミーラ、僕らに女の子が授かったよ」
T:モートンはとても無礼な人のようですね…。
C:いいえ!ぜんぜん無礼ではないわ!彼はとても謙虚な人よ。そういう話し方なだけよ。
T:モートンのキャリアを振り返ったとき、彼を誇りに思いますか?
C:思うわ!わたしが妻だからというわけではなくて。妻!なんて変な言葉なのでしょう。彼の恋人でいるほうがいいわ。彼を愛しています。
撮影所に、3人の子供をつれた長い金髪の女性があらわれてから1時間以上経った。子供の一人は、おむつなど家族の必需品をこまごまと載せたベビーカーに乗っていた。Tomineは夜通し起きていて泣いていた。2人の男の子はレモネードを飲みながらニンジャ・タートルズのビデオゲームで遊んでいた。
今日は長い一日になりそうだ。カミーラはカメラの前にいる。それは彼女が望むことなのだ!
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2000-05-10
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a-haでの成功は耐えられないものになった <Het Nieuwsblad 27/09/95>
訳:みこ
「僕は全て窓から放り出した。本当に価値があるのか証明されないかぎり、何にも価値が無いように思えたんだ。何もかもが下に落ちていくのを見ていた。それから何か残ってないか見に行った。そうしたら、ギターが残っていたんだ」と、モートン・ハルケットは語る。a-haのヒット曲の歴史の中で、彼は作曲はしなかった。しかし、今では『Wild Seed』 のアルバム全部の曲を一人で作曲したのである。そうすることで彼は、a-haでの大成功の結果陥った暗い深みから、ようやく抜け出すことができたのだ。『Take on Me』(85年)や『The Sun Always Shines on TV』(86年)、『Stay On These Roads』(88年)のようなヒットシングルはモートン・ハルケットを幸せにはしてくれなかった。ポップスターであることも彼を幸せにはしてくれなかった。これは彼の再生の物語である。
「ある瞬間に、何もかもがはっきりしたんだ。1991年にリオデジャネイロのマラカナ・スタディアムでのコンサートの時だ。僕らは19万4000人の観客の前で演奏していた。a-haを見るためだけにやって来て、入場料を払った人たちだよ。そして僕はそのステージ上に立って、あんなにも大勢の観客を前にしていた。観客の人たちが僕らを観にくるために大変な努力をしたに違いないことに気づいたんだ。何時間も並んでくれた人もいた。全てが計画通りに進行していて、完璧な状況だった。僕はそこに立っていて、そして僕はそんなことにちっとも感動していなってことに気づいたんだ」
「僕はその場に関わってないような気持ちだった。僕にはここにいる観客の期待しているようなものを何もあげることは出来ないと気づいた。そのことに腹が立った。頭を撃ち抜いてしまいたくなった。あの頃は本当に何がやりたかったんだろうね。僕はなぜこんなところにいるんだろう?世界中で曲が大ヒットしたし、全てをやりとげた。それなのにまだ満足してない。僕は19万4000人の人々、それ以外の人々も、自分自身も、誰もかもをがっかりさせてしまうんじゃないかという感じがしていた。僕にはこんなところにいる資格はないと思った」
それで、モートン・ハルケットはa-haのキャリアを中止させたのだった。「こういった疑念はいつもあったよ。僕たちは決して典型的なポップスターではなかった。でも、とうとう、耐えられなくなってしまった。それで僕は新しい人生を始めたんだ。混沌が許されるような生活を。僕の人生のあらゆる側面、プライベートもある生活をね。僕は何もかもきちんとコントロールすることを止めた。そして、ゼロから出発したんだ」
エヴァリー
「僕はトンネルに入り込んでしまったみたいだ。もう何もかも分からなくなってしまった。何にも価値が無いように思えた。というのは、価値のあると思っていたものは全て、昔のことを思い出させるものだったから。そんなものはもう僕の役には立たないものだったのに。実際、誰も僕に期待などできない、あても無くさまよっているような時期があった。1993年になってやっと、そんな状況から抜け出すことができたんだ。ギターを通じてね。このギターだよ。このギターはずっと僕を待っていてくれたんだよ。これは、エヴァリー・ブラザーズのフィル・エヴァリーからのプレゼントなんだ。彼は1987年に、僕たち3人にそれぞれ1本ずつ贈ってくれた。1993年の秋に僕はこのギターを弾き始めたんだ」
「僕はこれまで作曲はしてこなかった。a-haとしてのキャリアの初めに書いた、一曲だけが例外なんだ。それは今度出るCDに入る、『Lay Me Down Tonight』だよ。他の二人はこの曲を気に入ってくれたんだけど、この曲をアルバムに入れようと頑張ったりはしなかった。あまり競争意識は強くないんだ。僕は正しいと思っていることを押し通すために闘ったりするのは、好きじゃない。音楽の世界ではね。他の二人がたくさん曲を書いた。それで別に良かったんだよ。a-haでの僕の仕事は曲を書くことじゃなかったから。僕はかわりにサインを書くというわけ」
「君は成功もお金も全て手にしたのに、まだ幸せではないと言うのかと人々は思っているみたいだね。これは説明するのは難しい。これはまったく違った生活なのだから。こんなのは、どんな意味でもばかげた生活だよ。出会う全てのものが違ったものになってしまうんだ。一番仲の良かった友達でさえ、もう、ちょっと隣の椅子に座ってという風にはいかない。一人きりの旅路なんだ。同じような状況の人々としか会えなくなる。少なくとも、そういう人たちとは、ある種の繋がりが持てるからね」
コバーン
「だから、カート・コバーンが自殺したときには、完全に打ちのめされてしまった。どうしようもなく辛かった。本当に彼に会いに行くべきだったと考えていたよ。ニルヴァーナみたいなロックバンドにいるか、a-haみたいなポップバンドにいるかということは問題じゃないんだ。僕らは、同じ、顔のないモンスターに追いかけられているようなもので、それが僕らを押しつぶそうとしていたのだから」
「説明するのは難しいし、偉そうに聞こえるかもしれないけれど、でも僕はあえて、人々が僕のことを誤解するかもしれないリスク取ったんだ。名声というものはサービスの見返りと言っていい。これは本当だ。外交ばかりの生活だよ。自分を奮い立たせて、期待されていることをする。それがどんな感じだか知りたいんだったら、エルヴィスでも呼んで聞いてみたらいい。彼を死に追いやったのもそれなんだよ。もし自分のしていることの土台となるもの、自分に期待されていることをやるための力を与えてくれる何かがないのだったら、やめてしまった方がいい。自分を滅ぼしてしまうから。僕はやっとその土台を見つけた。僕の歌だよ。このソロアルバムは新しいスタートだ。これからもっと出すよ。もちろんa-haの新しいアルバムもね。もちろんだよ」
(転載許可確認済)Thanks to memorialbeach.com
「ある瞬間に、何もかもがはっきりしたんだ。1991年にリオデジャネイロのマラカナ・スタディアムでのコンサートの時だ。僕らは19万4000人の観客の前で演奏していた。a-haを見るためだけにやって来て、入場料を払った人たちだよ。そして僕はそのステージ上に立って、あんなにも大勢の観客を前にしていた。観客の人たちが僕らを観にくるために大変な努力をしたに違いないことに気づいたんだ。何時間も並んでくれた人もいた。全てが計画通りに進行していて、完璧な状況だった。僕はそこに立っていて、そして僕はそんなことにちっとも感動していなってことに気づいたんだ」
「僕はその場に関わってないような気持ちだった。僕にはここにいる観客の期待しているようなものを何もあげることは出来ないと気づいた。そのことに腹が立った。頭を撃ち抜いてしまいたくなった。あの頃は本当に何がやりたかったんだろうね。僕はなぜこんなところにいるんだろう?世界中で曲が大ヒットしたし、全てをやりとげた。それなのにまだ満足してない。僕は19万4000人の人々、それ以外の人々も、自分自身も、誰もかもをがっかりさせてしまうんじゃないかという感じがしていた。僕にはこんなところにいる資格はないと思った」
それで、モートン・ハルケットはa-haのキャリアを中止させたのだった。「こういった疑念はいつもあったよ。僕たちは決して典型的なポップスターではなかった。でも、とうとう、耐えられなくなってしまった。それで僕は新しい人生を始めたんだ。混沌が許されるような生活を。僕の人生のあらゆる側面、プライベートもある生活をね。僕は何もかもきちんとコントロールすることを止めた。そして、ゼロから出発したんだ」
エヴァリー
「僕はトンネルに入り込んでしまったみたいだ。もう何もかも分からなくなってしまった。何にも価値が無いように思えた。というのは、価値のあると思っていたものは全て、昔のことを思い出させるものだったから。そんなものはもう僕の役には立たないものだったのに。実際、誰も僕に期待などできない、あても無くさまよっているような時期があった。1993年になってやっと、そんな状況から抜け出すことができたんだ。ギターを通じてね。このギターだよ。このギターはずっと僕を待っていてくれたんだよ。これは、エヴァリー・ブラザーズのフィル・エヴァリーからのプレゼントなんだ。彼は1987年に、僕たち3人にそれぞれ1本ずつ贈ってくれた。1993年の秋に僕はこのギターを弾き始めたんだ」
「僕はこれまで作曲はしてこなかった。a-haとしてのキャリアの初めに書いた、一曲だけが例外なんだ。それは今度出るCDに入る、『Lay Me Down Tonight』だよ。他の二人はこの曲を気に入ってくれたんだけど、この曲をアルバムに入れようと頑張ったりはしなかった。あまり競争意識は強くないんだ。僕は正しいと思っていることを押し通すために闘ったりするのは、好きじゃない。音楽の世界ではね。他の二人がたくさん曲を書いた。それで別に良かったんだよ。a-haでの僕の仕事は曲を書くことじゃなかったから。僕はかわりにサインを書くというわけ」
「君は成功もお金も全て手にしたのに、まだ幸せではないと言うのかと人々は思っているみたいだね。これは説明するのは難しい。これはまったく違った生活なのだから。こんなのは、どんな意味でもばかげた生活だよ。出会う全てのものが違ったものになってしまうんだ。一番仲の良かった友達でさえ、もう、ちょっと隣の椅子に座ってという風にはいかない。一人きりの旅路なんだ。同じような状況の人々としか会えなくなる。少なくとも、そういう人たちとは、ある種の繋がりが持てるからね」
コバーン
「だから、カート・コバーンが自殺したときには、完全に打ちのめされてしまった。どうしようもなく辛かった。本当に彼に会いに行くべきだったと考えていたよ。ニルヴァーナみたいなロックバンドにいるか、a-haみたいなポップバンドにいるかということは問題じゃないんだ。僕らは、同じ、顔のないモンスターに追いかけられているようなもので、それが僕らを押しつぶそうとしていたのだから」
「説明するのは難しいし、偉そうに聞こえるかもしれないけれど、でも僕はあえて、人々が僕のことを誤解するかもしれないリスク取ったんだ。名声というものはサービスの見返りと言っていい。これは本当だ。外交ばかりの生活だよ。自分を奮い立たせて、期待されていることをする。それがどんな感じだか知りたいんだったら、エルヴィスでも呼んで聞いてみたらいい。彼を死に追いやったのもそれなんだよ。もし自分のしていることの土台となるもの、自分に期待されていることをやるための力を与えてくれる何かがないのだったら、やめてしまった方がいい。自分を滅ぼしてしまうから。僕はやっとその土台を見つけた。僕の歌だよ。このソロアルバムは新しいスタートだ。これからもっと出すよ。もちろんa-haの新しいアルバムもね。もちろんだよ」
(転載許可確認済)Thanks to memorialbeach.com
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2000-05-10
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詩を書けないシンガーと、歌を歌えない詩人 <Aftenposten 26/08/95>
訳:みこ
(このインタビューはノルウェー語記事をSabineさんが英訳したものを、さらに、みこが日本語に訳しました。英訳文中に一部、ノルウェー語のままの個所が残っていましたが、そこは日本語に訳していません。[ ]内の訳注はSabineさんの、文末の訳注はみこによるものです。)
モートン・ハルケットはこれまで作曲をしたことは無かった。Haavard Remはこれまで英語で詩を書いたことは無かった。しかし今、彼らはやり遂げた。その成果が二人のデビュー・アルバム、『Wild Seed』だ。
この共同作業は二人に強烈な印象を残した。
「僕らが初めて会ったのは、1992年のある冬の日の午後で、モートンの兄弟の家でだったよね」と、Haavard Remと話す。
「僕はそこにいた?」とモートンは確信が無い。
状況は非常に難しい。それでも、二人を一度に捕まえるのは思ったほど難しくはなかった。モートン・ハルケットはSoerlandに住んでいる祖母のところから、ストックホルム行きの飛行機に乗る妻と子供たちを空港に連れて行くところだ。彼は明日、ロンドンへ旅立つ。ギターを肩にし、動かない携帯電話を持ったモートンと会えるのは、今夜数時間だけ。彼は道端のソーセージ売りの屋台から電話をかけて、インタビューをするのだったらもう少し遅い時間にしないかと言ってきた。「8時から11時の間に会えない?」と彼は提案する。彼は決して時間に正確ではない。
Haavard Remは携帯電話を片手にビーチに寝そべっている。彼は奥さんと二人の子供を、ArendalからHukへ、海水浴に連れて来ている。彼は、今夜あるコンサート以外には何もすることがない。おまけに、モートンにインタビューをするのは夜中を過ぎてからが一番良いとHaavardは信じている。
「モートンの頭が一番冴えるのは夜の間だから」というのがHaavardの結論だ。
「いや、今からやろうよ!」とモートンは少し後に電話をしてきた。11時数分過ぎのことだ。モートンはHaavardと話したがっている。
「Haavardは今、Hukにいるんですよ」と私が言う。
「でも1時間前の約束だったよね!」とモートンは文句を言う。
「確かにそうなのですけど…」
どちらも大人である、この二人が一緒にCD作りをするために長い時間顔を合わせることができたと、どうしたら信じられるだろうか。詩人であり、思慮深さそのもののような人であり、文学においても実生活においても言葉を巧みに操り、自分自身については、携帯電話無しでは生活できない人間だと語るHaavard Remをつなぎとめることのできる物など何も無いことは、誰でも理解できる。彼は今ではほとんどポップスターのようだ。
モートン・ハルケットは自分の思う通りに物事をできるようになった。自分自身のソロ・キャリアをコントロールし、時間にいらいすることはあっても、他のものに煩わされることは無い。彼が詩人だといったら、信じる人もいるだろう。歌を歌えない詩人と詩を書けない歌手という、まるで似てない二人組はノアの箱舟の中でもなかなか見つかるまい。
「モートンは本を読んだことが無いんだよ」とHaavardが言う。
「Haavardは一曲だってメロディーを覚えていないんだよ」とモートンがからかう。
どちらの言うこともウソである。モートンは、哲学の試験勉強でもしてきたような話し方をする人だ。Haavardも、彼の詩のフレーズを音楽に乗せたかのように口ずさんでいる。しかし、どちらの言うこともある意味では正しい。文学の世界とは程遠いシンガーは、彼のために言葉を綴る人を見つけ、歌声を持たない詩人は、彼の詩の解説者を見つけたのだから。
つまり、どういうことなのだろうか?
「モートンは、僕の作ったメロディーに、この素晴らしい歌詞をつけてくれたってことだよ」とHaavardは皮肉っぽく言う。
「じゃあ、君は作曲を始めたの?」とモートンは、マジメくさった顔で聞く。
しかし、二人の話は真剣になった。a-haのフロントマンだが、これまでバンドの作詞にも作曲にも貢献してこなかったモートンは、特に真剣に話し始めた。彼は単なるシンガー以上のものになれたのだろうか?ソロ・アルバムに関して、彼は題材を探し求めていたが、同時にそれは自分自身を探すことでもあった。子供のときから、彼は楽器を弾いたことはなかった。音符を書いたり読んだりすることもなかった。しかし、レコード会社にとって、そんなことは問題ではなかった。ロンドンのワーナー・ブラザーズが彼と結んだ契約は、単なるポップ・シンガーとの契約だった。レコード会社が欲しかったのは、大ヒット作を生むことのできるモートンであり、モートン自身は卒業したつもりの時代、10年前に、女の子たちのアイドルだったモートンである。
モートンがやりたかったのは、もっと別のことだった。
「僕はもうすっかり大人になっていたんだよ」と彼は言う。「もっと昔に大人になっていなくてはならなかったのだけど。僕がコントロールできるものの手綱を締め、僕をコントロールしていたものからは自由になる必要があった。初め、僕はワーナーの期待に添ったアルバムをレコーディングした。一度全部完成している。でも僕自身は、そんなものは欲しくなかった。だから僕はまったく別のものを作らなければならなかった。少しずつ、僕は自分自身の曲、自分自身で書いた曲を出していった。レコード会社は、僕が作曲することには好意的だった。でも僕は、自分の好みに合わないようなポップミュージックのスタイルで、骨抜きの作品を作りたいわけじゃなかった。僕はこのレコードで、何も偽ることなく、できる限りのことをした。万が一、契約を遵守するようにせまられたときに、僕にとって、ある種の保険になるように。
でも、これはどこか別の場所で待ち構えている、僕にとっての挑戦になると確信していた。つまり、生き残るためには、レコード会社が新しいものの方がいいと言って、古いものを捨て去ってくれるようになること、レコード会社が嫌がるものを無理やりに押し付けるというのではなく、僕の音楽が彼らを納得させることができたから、彼らが僕の意見に賛成してくれるようになることが、僕には必要だったんだ」
「そのことにHaavardが果たした役割は?」
「彼はちょうど良い時に現れてくれた、僕に必要な火のような存在だよ。僕には誰か僕を研ぎ澄まさせてくれる人が必要だった。僕は行き詰まっていたから。僕は直感的に、僕には自分のしたいことができていないと感じていた。自分の中にその力があることは分かっていたけれど、それを引き出すことができるのはHaavardだけで、彼のおかげで今の道をたどることができるようになった。僕らが一緒にやりとげたことは、僕自身アーティストとしてのアイデンティティを確立するために役に立っている」
彼は作曲を始める前に、弦楽器の演奏について一から学ばなくてはならなかった。
「それがたまたまギターだったんだよ。子供の時に、ピアノの前に座って、新しい曲を作っていたことを覚えている。でも、先生の前に行くときになると、完全に忘れてしまっているんだよ。[Det var doedt i aatte aar, jeg lurte henne trill rundt, fordi jeg husket hva hun haddle spilt.]」
おそらくはHaavard Remの言うように、「モートンのエゴは大きすぎるから、誰の目にも見えない」のだろう。
2年前にモートンが読んだことのない詩を、これまで聞いたことのない曲に合わせて歌うためにスタジオへ入ったときは、Remがモートンと知り合うのに十分な時間は時間は無かった。Remの選んだ詩を基に作られた、『Poetenes Evangelium』のレコーディングは、ほんの一瞬のひらめきによって生まれたものだ。このアルバムは大成功というほどでもなかったが、後にビデオ撮影のためにイスラエ
ルへ向かう飛行機の中で、モートンはその時の状況は覚えていないけれど、モートン
とHaavardは出会ったのである。
[1993年10月末に、『Salome』と『Natten』(どちらも『Poetenes Evangelium』からの曲)の2曲のビデオがイスラエルで撮影された。この作品はノルウェーの映画館で、本編の前に短編映画として上映された。]
しかし、Haavardはこう言う。
「僕らはよく連絡を取ったよ。僕はモートンに僕の『Oevelser i grensesetting』[境界線を引く練習]の本をあげたんだ。これは、かなり宗教的でイデオロギー的なアプローチで書いた詩を集めたものだ。エルサレムに行った後、僕はイギリスにいるモートンにあと数冊の詩集を送った」
「いくつか、すごく変わった作品があったよ!」とモートンが横から割り込んできた。
「そうだね、しかしその年の冬、僕らはモルジブへ行って、帰国する飛行機の中で、僕は初めて英語で詩を書いた。2週間後、その詩のためのメロディーが僕のうちの留守電に入っていたよ」
「このことは詩人に何を与えてくれるでしょうか?」
「たくさんのことを与えてくれる。ヴェーゲラン(訳注1)はノルウェーの詩人は、まるで檻に閉じ込められた鷲のように、自らの言葉によって繋がれてしまっていると言っている。これが理由だったんだよ。人生には、おそらく5回か6回くらい素晴らしい瞬間、、読者が詩人と同じようにその瞬間を体験できるような瞬間がある。そして、そんな瞬間に生まれた詩、自分自身の詩が、世界市場向けに選ばれた。英語で書くアーティストだからだ。僕はこれまでにレナード・コーエンのノルウェー語訳を発表したし、今度は自分自身の作品を英語で発表する。こういうのは好きだね」
「お金になるからですか?」
「多分ね。お金は僕が一番好きなことで生活する自由—何もしないでただ詩を書くだけの時間—を与えてくれるからね。ノルウェーのアーティストの考え方にはどこか悲劇的なところがある。アーティストとして成長することと、このような小さな市場で生き残ることの両立はできないから。Jahn Teigen(訳注2)はノルウェーの環境から離れれば、新しい方面へもっと才能を伸ばすことができたはずだし、Jan Garbarek(訳注3)は、もし世界中の観客に聞いてもらうことができなければ、アーティストとして行き詰まっていただろう。僕達の場合、モートンと僕は二つの違った側面を持っている。モートンは、表面的な、外の世界へ向けた物事では多くのことを成し遂げてきたが、アーティストとして認められてはいない。僕はその反対で、なんとか詩を書いて来たけれども、人に知られてはいなかった。だからここで僕達はお互いに交換しあったわけだ」
しかし、彼らはどういうふうに、共同作業をしてきたんだろうか?
「僕らはいつもお互いを批判しあっているよ」と、作曲家は、きっぱりと言う。
「物事をスムーズにするためだと言ってほしいね」と詩人。
「君の何が問題か分かっている?」とモートンはHaavardに言う。「君はうまいこと物事を変えてしまうくせに、皆がそれに気づく前に、それを全部やめてしまう」
「それは、僕は自分の手を使って仕事をしているからだよ」とHaavardは答える。
「そう、でも君の持ち味は、詩に付き物の女性的な側面に、男性的な表現を与えることができるということだよ」
「それじゃ、モートン・ハルケットの持ち味とは何でしょうか?」
「モートンは、クリフ・リチャードでありボブ・ディランであることができる。[men ikke er noen av delene I et uttrykk som allikevel er en slags blanding]」とHaavard Remは言う。
そして、作曲家はギターを手にとり、詩人は携帯電話を持って、それぞれのうちへ夜道を帰っていった。
『Wild Seed』発売
今夜、モートン・ハルケットはNRK放送のMomardeket(訳注4)で演奏します。またアルバム『Wild Seed』は9月4日に発売されます。シングル『A Kind of Christmas Card』は数週間前に発売されましたが、ノルウェーチャート1位の地位は頑として動きません。イギリスでの盛り上がりはそれほどではありません。これからの数週間、全面的なプロモ・ツアーが行なわれ、テレビ・ラジオへの出演や、マスコミとのインタビューも予定されています。Momarkedet出演の後、彼はロンドンへ、その後メキシコへ行き、またロンドンへ戻り、ドイツへ、そしてその他ヨーロッパ各地を回ります。もしこのアルバムの「離陸」がうまくいけば、スタジオ・ミュージシャンの中から、ツアーのためのバンドが結成されることになります。
訳注
1.ヴェーゲラン 19世紀のノルウェーの詩人。
2.Jahn Teigen ノルウェーのシンガー。ノルウェー国内で活動。
3.Jan Garbarek ノルウェー出身で世界的に有名なサックス奏者。2001年のノーベルコンサートにも出演。
4.赤十字支援のためのライブ・コンサート
(転載許可確認済)Thanks to memorialbeach.com
状況は非常に難しい。それでも、二人を一度に捕まえるのは思ったほど難しくはなかった。モートン・ハルケットはSoerlandに住んでいる祖母のところから、ストックホルム行きの飛行機に乗る妻と子供たちを空港に連れて行くところだ。彼は明日、ロンドンへ旅立つ。ギターを肩にし、動かない携帯電話を持ったモートンと会えるのは、今夜数時間だけ。彼は道端のソーセージ売りの屋台から電話をかけて、インタビューをするのだったらもう少し遅い時間にしないかと言ってきた。「8時から11時の間に会えない?」と彼は提案する。彼は決して時間に正確ではない。
Haavard Remは携帯電話を片手にビーチに寝そべっている。彼は奥さんと二人の子供を、ArendalからHukへ、海水浴に連れて来ている。彼は、今夜あるコンサート以外には何もすることがない。おまけに、モートンにインタビューをするのは夜中を過ぎてからが一番良いとHaavardは信じている。
「モートンの頭が一番冴えるのは夜の間だから」というのがHaavardの結論だ。
「いや、今からやろうよ!」とモートンは少し後に電話をしてきた。11時数分過ぎのことだ。モートンはHaavardと話したがっている。
「Haavardは今、Hukにいるんですよ」と私が言う。
「でも1時間前の約束だったよね!」とモートンは文句を言う。
「確かにそうなのですけど…」
どちらも大人である、この二人が一緒にCD作りをするために長い時間顔を合わせることができたと、どうしたら信じられるだろうか。詩人であり、思慮深さそのもののような人であり、文学においても実生活においても言葉を巧みに操り、自分自身については、携帯電話無しでは生活できない人間だと語るHaavard Remをつなぎとめることのできる物など何も無いことは、誰でも理解できる。彼は今ではほとんどポップスターのようだ。
モートン・ハルケットは自分の思う通りに物事をできるようになった。自分自身のソロ・キャリアをコントロールし、時間にいらいすることはあっても、他のものに煩わされることは無い。彼が詩人だといったら、信じる人もいるだろう。歌を歌えない詩人と詩を書けない歌手という、まるで似てない二人組はノアの箱舟の中でもなかなか見つかるまい。
「モートンは本を読んだことが無いんだよ」とHaavardが言う。
「Haavardは一曲だってメロディーを覚えていないんだよ」とモートンがからかう。
どちらの言うこともウソである。モートンは、哲学の試験勉強でもしてきたような話し方をする人だ。Haavardも、彼の詩のフレーズを音楽に乗せたかのように口ずさんでいる。しかし、どちらの言うこともある意味では正しい。文学の世界とは程遠いシンガーは、彼のために言葉を綴る人を見つけ、歌声を持たない詩人は、彼の詩の解説者を見つけたのだから。
つまり、どういうことなのだろうか?
「モートンは、僕の作ったメロディーに、この素晴らしい歌詞をつけてくれたってことだよ」とHaavardは皮肉っぽく言う。
「じゃあ、君は作曲を始めたの?」とモートンは、マジメくさった顔で聞く。
しかし、二人の話は真剣になった。a-haのフロントマンだが、これまでバンドの作詞にも作曲にも貢献してこなかったモートンは、特に真剣に話し始めた。彼は単なるシンガー以上のものになれたのだろうか?ソロ・アルバムに関して、彼は題材を探し求めていたが、同時にそれは自分自身を探すことでもあった。子供のときから、彼は楽器を弾いたことはなかった。音符を書いたり読んだりすることもなかった。しかし、レコード会社にとって、そんなことは問題ではなかった。ロンドンのワーナー・ブラザーズが彼と結んだ契約は、単なるポップ・シンガーとの契約だった。レコード会社が欲しかったのは、大ヒット作を生むことのできるモートンであり、モートン自身は卒業したつもりの時代、10年前に、女の子たちのアイドルだったモートンである。
モートンがやりたかったのは、もっと別のことだった。
「僕はもうすっかり大人になっていたんだよ」と彼は言う。「もっと昔に大人になっていなくてはならなかったのだけど。僕がコントロールできるものの手綱を締め、僕をコントロールしていたものからは自由になる必要があった。初め、僕はワーナーの期待に添ったアルバムをレコーディングした。一度全部完成している。でも僕自身は、そんなものは欲しくなかった。だから僕はまったく別のものを作らなければならなかった。少しずつ、僕は自分自身の曲、自分自身で書いた曲を出していった。レコード会社は、僕が作曲することには好意的だった。でも僕は、自分の好みに合わないようなポップミュージックのスタイルで、骨抜きの作品を作りたいわけじゃなかった。僕はこのレコードで、何も偽ることなく、できる限りのことをした。万が一、契約を遵守するようにせまられたときに、僕にとって、ある種の保険になるように。
でも、これはどこか別の場所で待ち構えている、僕にとっての挑戦になると確信していた。つまり、生き残るためには、レコード会社が新しいものの方がいいと言って、古いものを捨て去ってくれるようになること、レコード会社が嫌がるものを無理やりに押し付けるというのではなく、僕の音楽が彼らを納得させることができたから、彼らが僕の意見に賛成してくれるようになることが、僕には必要だったんだ」
「そのことにHaavardが果たした役割は?」
「彼はちょうど良い時に現れてくれた、僕に必要な火のような存在だよ。僕には誰か僕を研ぎ澄まさせてくれる人が必要だった。僕は行き詰まっていたから。僕は直感的に、僕には自分のしたいことができていないと感じていた。自分の中にその力があることは分かっていたけれど、それを引き出すことができるのはHaavardだけで、彼のおかげで今の道をたどることができるようになった。僕らが一緒にやりとげたことは、僕自身アーティストとしてのアイデンティティを確立するために役に立っている」
彼は作曲を始める前に、弦楽器の演奏について一から学ばなくてはならなかった。
「それがたまたまギターだったんだよ。子供の時に、ピアノの前に座って、新しい曲を作っていたことを覚えている。でも、先生の前に行くときになると、完全に忘れてしまっているんだよ。[Det var doedt i aatte aar, jeg lurte henne trill rundt, fordi jeg husket hva hun haddle spilt.]」
おそらくはHaavard Remの言うように、「モートンのエゴは大きすぎるから、誰の目にも見えない」のだろう。
2年前にモートンが読んだことのない詩を、これまで聞いたことのない曲に合わせて歌うためにスタジオへ入ったときは、Remがモートンと知り合うのに十分な時間は時間は無かった。Remの選んだ詩を基に作られた、『Poetenes Evangelium』のレコーディングは、ほんの一瞬のひらめきによって生まれたものだ。このアルバムは大成功というほどでもなかったが、後にビデオ撮影のためにイスラエ
ルへ向かう飛行機の中で、モートンはその時の状況は覚えていないけれど、モートン
とHaavardは出会ったのである。
[1993年10月末に、『Salome』と『Natten』(どちらも『Poetenes Evangelium』からの曲)の2曲のビデオがイスラエルで撮影された。この作品はノルウェーの映画館で、本編の前に短編映画として上映された。]
しかし、Haavardはこう言う。
「僕らはよく連絡を取ったよ。僕はモートンに僕の『Oevelser i grensesetting』[境界線を引く練習]の本をあげたんだ。これは、かなり宗教的でイデオロギー的なアプローチで書いた詩を集めたものだ。エルサレムに行った後、僕はイギリスにいるモートンにあと数冊の詩集を送った」
「いくつか、すごく変わった作品があったよ!」とモートンが横から割り込んできた。
「そうだね、しかしその年の冬、僕らはモルジブへ行って、帰国する飛行機の中で、僕は初めて英語で詩を書いた。2週間後、その詩のためのメロディーが僕のうちの留守電に入っていたよ」
「このことは詩人に何を与えてくれるでしょうか?」
「たくさんのことを与えてくれる。ヴェーゲラン(訳注1)はノルウェーの詩人は、まるで檻に閉じ込められた鷲のように、自らの言葉によって繋がれてしまっていると言っている。これが理由だったんだよ。人生には、おそらく5回か6回くらい素晴らしい瞬間、、読者が詩人と同じようにその瞬間を体験できるような瞬間がある。そして、そんな瞬間に生まれた詩、自分自身の詩が、世界市場向けに選ばれた。英語で書くアーティストだからだ。僕はこれまでにレナード・コーエンのノルウェー語訳を発表したし、今度は自分自身の作品を英語で発表する。こういうのは好きだね」
「お金になるからですか?」
「多分ね。お金は僕が一番好きなことで生活する自由—何もしないでただ詩を書くだけの時間—を与えてくれるからね。ノルウェーのアーティストの考え方にはどこか悲劇的なところがある。アーティストとして成長することと、このような小さな市場で生き残ることの両立はできないから。Jahn Teigen(訳注2)はノルウェーの環境から離れれば、新しい方面へもっと才能を伸ばすことができたはずだし、Jan Garbarek(訳注3)は、もし世界中の観客に聞いてもらうことができなければ、アーティストとして行き詰まっていただろう。僕達の場合、モートンと僕は二つの違った側面を持っている。モートンは、表面的な、外の世界へ向けた物事では多くのことを成し遂げてきたが、アーティストとして認められてはいない。僕はその反対で、なんとか詩を書いて来たけれども、人に知られてはいなかった。だからここで僕達はお互いに交換しあったわけだ」
しかし、彼らはどういうふうに、共同作業をしてきたんだろうか?
「僕らはいつもお互いを批判しあっているよ」と、作曲家は、きっぱりと言う。
「物事をスムーズにするためだと言ってほしいね」と詩人。
「君の何が問題か分かっている?」とモートンはHaavardに言う。「君はうまいこと物事を変えてしまうくせに、皆がそれに気づく前に、それを全部やめてしまう」
「それは、僕は自分の手を使って仕事をしているからだよ」とHaavardは答える。
「そう、でも君の持ち味は、詩に付き物の女性的な側面に、男性的な表現を与えることができるということだよ」
「それじゃ、モートン・ハルケットの持ち味とは何でしょうか?」
「モートンは、クリフ・リチャードでありボブ・ディランであることができる。[men ikke er noen av delene I et uttrykk som allikevel er en slags blanding]」とHaavard Remは言う。
そして、作曲家はギターを手にとり、詩人は携帯電話を持って、それぞれのうちへ夜道を帰っていった。
『Wild Seed』発売
今夜、モートン・ハルケットはNRK放送のMomardeket(訳注4)で演奏します。またアルバム『Wild Seed』は9月4日に発売されます。シングル『A Kind of Christmas Card』は数週間前に発売されましたが、ノルウェーチャート1位の地位は頑として動きません。イギリスでの盛り上がりはそれほどではありません。これからの数週間、全面的なプロモ・ツアーが行なわれ、テレビ・ラジオへの出演や、マスコミとのインタビューも予定されています。Momarkedet出演の後、彼はロンドンへ、その後メキシコへ行き、またロンドンへ戻り、ドイツへ、そしてその他ヨーロッパ各地を回ります。もしこのアルバムの「離陸」がうまくいけば、スタジオ・ミュージシャンの中から、ツアーのためのバンドが結成されることになります。
訳注
1.ヴェーゲラン 19世紀のノルウェーの詩人。
2.Jahn Teigen ノルウェーのシンガー。ノルウェー国内で活動。
3.Jan Garbarek ノルウェー出身で世界的に有名なサックス奏者。2001年のノーベルコンサートにも出演。
4.赤十字支援のためのライブ・コンサート
(転載許可確認済)Thanks to memorialbeach.com
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2000-05-10
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イギリスでの行き詰まり <Arbeiderbladet 25/08/95>
訳&訳注:みこ
モートン・ハルケットのシングル『A Kind of Christmas Card』はノルウェーのチャートのトップに踊り出ました。しかし、かつてa-haが世界へはばたくきっかけとなったイギリスでは、ハルケットのソロ・デビューは行き詰まっています。
「今では、僕のレコード会社、ワーナー・ミュージックはこのシングルを引き上げて、次の『Spanish Steps』を出すつもりなんだ」。「それでも、他の国のチャートの上位を記録すれば、『A Kind of Christmas Card』をもう一度売り出す道が開けるかもしれない」と、モートン・ハルケット(35)は語ります。
イギリスでのこういった問題は、モートンも他の人たちも言うように、有力なラジオDJたちのせいなのです。誰の曲をラジオで大々的に扱い、誰の曲を扱わないか決める権限をもっている人たちです。
「ラジオで曲をかけてもらえなければ、どうしようもないよ。僕のケースで実際何が起きたのかって憶測したって意味がない。いろんな説明ができるだろうね。彼らが僕のことを好きじゃないとか、他のアーティストに放送時間をたくさん約束してしまっていて、競合相手を持ち込みたくないとか」と話すモートンですが、肘鉄砲をくらった人には見えません。
1週間後に、彼のニュー・アルバム『Wild Seed』は全世界でリリースされます。ゆったりとした曲がほとんどのアルバムです。これが彼のソロデビュー作になると言うと、文句を言う人もいるかもしれません。実際、モートンは以前に一度、Kirkelig Kulturverkstedからリリースされ『Poetenes Evangelium』で、単独の活動をしています。しかし、これは世界中でリリースされたわけではありませんでしたし、モートンはただ「雇われた」だけのプロジェクトでした。
『Wild Seed』は『Poetenes Evangelium』からの延長上にあります。作詞家のHaavard Remと音楽の共作者であるKjetil Bjerkestrandは二人とも前作に引き続いて参加していて、信じられないくらいに精力的に仕事をしています。「でも今回は、僕自身のアイディアを押し通したんだ」とハルケットは言います。彼は、前作ではソロ・アーティストとして歌ったというわけではありませんでした。
アルバムのタイトル選びは難航しました。初め、ハルケットとRemはアルバムのタイトルを『The
world outside Waco(ウェイコの外の世界)』にしたいと考えていました。ウェイコとはある狂信的な宗教団体が本拠地を置いていて、数年前に「有名」になったテキサス州の町のことです。「ワーナーのボスはアルバムのタイトルが気に入らず、説明を求めてきたんだ。Haavardは、ウェイコではこれからもっとひどいことが起きると指摘した。あの街では、もうすぐひどいことが起きるから、とHaavardはワーナーのボスたちに言ったんだよ。その次の週、町は炎上した。そして、このタイトルは時代遅れになったんだ」と、ハルケットはにっこりと笑いました。(※1)
ワーナーの偉い人たちは、アルバムの中でもハルケット自身が気に入っていて、一番心をこめたと断言できる曲をボツにしました。『Gospel from Heaven』は、あまりにも強烈すぎると考えたのです。「レコード会社は、歌詞のことでイスラム原理主義者がどう反応するか怖かったんだよ」と、a-haのシンガーは言います。(※2)
それでも、ハルケットが国際的なマーケットの道を歩むことを止まらせるものは何もありません。問題は、彼がどのくらい長くそこへとどまっていられるかであり、もしソロキャリアがうまくいかなかったときに、a-haと共にもう一度挑戦することはできるのかなのです。
「たとえ何が起ころうと、僕は大きく前進したんだよ。つまり初めて、自分自身で曲を作ったんだ。a-haではこんなことはできなかった。僕にとっては、これは始まりにすぎないけれど、ポールとマグスと僕の新しいプロジェクトにとってはまったく新しい可能性を開くことができると思う。でも、今すぐにというわけじゃないけどね」と、モートン・ハルケットは言います。
訳注
※1)テキサス州ウェイコ - この町に本部のあった、ブランチ・ダヴィディアンというカルト宗教団体の起こした事件を指しています。この教団施設が大量の武器を所有していたために、政府機関が押収に向かったところ、教団との間に銃撃戦になり、政府機関職員数人が死亡しました。その後、数十日間の篭城の後、教団自ら施設に放火し、子供を含め信者80人以上が死亡するという事件が起きました。
※2)『Gospel from Heaven』 - Jungles of belief サイトのDownloadsで聴くことが出来ます。
(転載許可確認済)Thanks to memorialbeach.com
イギリスでのこういった問題は、モートンも他の人たちも言うように、有力なラジオDJたちのせいなのです。誰の曲をラジオで大々的に扱い、誰の曲を扱わないか決める権限をもっている人たちです。
「ラジオで曲をかけてもらえなければ、どうしようもないよ。僕のケースで実際何が起きたのかって憶測したって意味がない。いろんな説明ができるだろうね。彼らが僕のことを好きじゃないとか、他のアーティストに放送時間をたくさん約束してしまっていて、競合相手を持ち込みたくないとか」と話すモートンですが、肘鉄砲をくらった人には見えません。
1週間後に、彼のニュー・アルバム『Wild Seed』は全世界でリリースされます。ゆったりとした曲がほとんどのアルバムです。これが彼のソロデビュー作になると言うと、文句を言う人もいるかもしれません。実際、モートンは以前に一度、Kirkelig Kulturverkstedからリリースされ『Poetenes Evangelium』で、単独の活動をしています。しかし、これは世界中でリリースされたわけではありませんでしたし、モートンはただ「雇われた」だけのプロジェクトでした。
『Wild Seed』は『Poetenes Evangelium』からの延長上にあります。作詞家のHaavard Remと音楽の共作者であるKjetil Bjerkestrandは二人とも前作に引き続いて参加していて、信じられないくらいに精力的に仕事をしています。「でも今回は、僕自身のアイディアを押し通したんだ」とハルケットは言います。彼は、前作ではソロ・アーティストとして歌ったというわけではありませんでした。
アルバムのタイトル選びは難航しました。初め、ハルケットとRemはアルバムのタイトルを『The
world outside Waco(ウェイコの外の世界)』にしたいと考えていました。ウェイコとはある狂信的な宗教団体が本拠地を置いていて、数年前に「有名」になったテキサス州の町のことです。「ワーナーのボスはアルバムのタイトルが気に入らず、説明を求めてきたんだ。Haavardは、ウェイコではこれからもっとひどいことが起きると指摘した。あの街では、もうすぐひどいことが起きるから、とHaavardはワーナーのボスたちに言ったんだよ。その次の週、町は炎上した。そして、このタイトルは時代遅れになったんだ」と、ハルケットはにっこりと笑いました。(※1)
ワーナーの偉い人たちは、アルバムの中でもハルケット自身が気に入っていて、一番心をこめたと断言できる曲をボツにしました。『Gospel from Heaven』は、あまりにも強烈すぎると考えたのです。「レコード会社は、歌詞のことでイスラム原理主義者がどう反応するか怖かったんだよ」と、a-haのシンガーは言います。(※2)
それでも、ハルケットが国際的なマーケットの道を歩むことを止まらせるものは何もありません。問題は、彼がどのくらい長くそこへとどまっていられるかであり、もしソロキャリアがうまくいかなかったときに、a-haと共にもう一度挑戦することはできるのかなのです。
「たとえ何が起ころうと、僕は大きく前進したんだよ。つまり初めて、自分自身で曲を作ったんだ。a-haではこんなことはできなかった。僕にとっては、これは始まりにすぎないけれど、ポールとマグスと僕の新しいプロジェクトにとってはまったく新しい可能性を開くことができると思う。でも、今すぐにというわけじゃないけどね」と、モートン・ハルケットは言います。
訳注
※1)テキサス州ウェイコ - この町に本部のあった、ブランチ・ダヴィディアンというカルト宗教団体の起こした事件を指しています。この教団施設が大量の武器を所有していたために、政府機関が押収に向かったところ、教団との間に銃撃戦になり、政府機関職員数人が死亡しました。その後、数十日間の篭城の後、教団自ら施設に放火し、子供を含め信者80人以上が死亡するという事件が起きました。
※2)『Gospel from Heaven』 - Jungles of belief サイトのDownloadsで聴くことが出来ます。
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モートン・ハルケットに何が起こっても、a-haと言うだろうか? <by Michael Cable Daily Express 29/07/95>
訳:Mayumi
ポップスターの地位は、モートンを打ちのめしてしまったが、今、彼はソロ・アーティストとして成功を収めようとしている。
ロビー・ウィリアムズが重いプレッシャーによる苦痛を訴えてTake Thatを離れたように、そしてマット・ゴスがBrosの厳しい現実について告白したように、a-haのピンナップ・スターのモートン・ハルケットもまた、ティーンのスーパースターでいることは、常に素晴らしいわけではない、ということを証明した。
80年代後半に、ノルウェーのグループ、a-haは成功を極めたが、モートンは、トップアイドルとしての生活からくるプレッシャーで、肉体的にそして精神的にも参ってしまったという。
「全てに疲れ果てた状態に陥ってしまったんだ」とモートンは当時を振り返る。「僕の体は腫れ物だらけになってしまった。味覚がまったく無くなってしまい、色盲になってしまった。全て無味乾燥になってしまい、まるで自分が灰皿になってしまったみたいだった。まるで96歳の老人になったように感じて、生きていくのが嫌になってしまった」
「世間やマスコミの要求に殺されかねなかった。エルビス(プレスリー)もこれに殺されてしまったんだ。自分でコントロールする方法がわからなかったり、そこから離れるタイミングを知らなかったら、いずれだめになってしまう。過労で倒れることで、自分自身を正常な状態に戻す必要があった」
a-haは立て続けに8枚のシングルをトップテンに送りこんだが、それから7年経った今姿を見せることは無く、(活動停止は)永久的なものになってしまったようだ。モートンは35歳になり、すっかり生気を取り戻した今、ソロアーティストとして喧騒のポップビジネスへ返り咲こうとしている。
ファーストシングルの『A Kind of Christmas Card』とソロデビューアルバム『Wild Seed』をリリースする準備をしているが、モートン自身、a-haと同じレベルの商業的成功を望むのは難しいことを十分承知しているようだ。
「(商業的な成功については)心配していないんだ。a-haと同じレベルの成功を望んで、プレッシャーを感じているわけではないからね。競争したり比べることにまったく興味は無い。このアルバムが、(アーティストとして)今後も続けていける程度に成功してくれたらそれで満足だよ」
モートンは、『Take On Me』や『The Sun Always Shines on TV』がヒットした当時のa-haが経験した狂乱状態を再び経験することを望んでいない。
スターになることは、モートンにとって17歳の頃からの夢だった。そして、8年後のある日突然その夢がかなうことになった。1985年にファーストシングルの『Take On Me』が世界中で大ヒットしたのだ。モートンと、バンド仲間のポール・ワークター、マグス・フルホルメンは、早くからスターの現実に幻滅することになった。
「どこへ行っても、ものすごい美人が僕の足元にひれふしたものだよ。だけど、それに便乗したことはなかった。それでは簡単すぎるよ。僕はいつでも自分で追いかけて獲物を捕らえるほうが魅力的だと考えていた。だから、小鳥たちを簡単に手に入れることはしなかった。胸をはって言えるよ」
現在、モートンはスウェーデン人女優のカミーラと結婚していており、上は6歳から下は2歳まで3人の子供がいる。「はじめは、世間の注目やら成功を楽しんでいた。楽しかったし、素晴らしい時もあったんだ。だけど、成功するためだけに働いていたことはなかった。僕らにとって、音楽が重要なものだった。(音楽的に)成長することを許されないのがとても悲しかった。たくさんの人に依存されるようになって、a-haは、ハンバーガーみたいにレコードを大量生産するポップミュージックの工場に成り果ててしまったんだ」
「スターの座にいたときは公共物として、世間が思いこんでいるような有名人としての行動を求められた。3年後には、もう十分だと思ったよ」
ファンの目から逃れるためにアマゾン旅行に出たが、そのとき起こった事件は、ついにモートンの忍耐の限界を超えてしまった。
「人里離れた小さな集落にある小ぢんまりとした宿屋に泊まっていたんだ。」モートンは思い出を語る。「インディアンの村へ向かうためにカヌーで川上へ向かった。宿に戻ったとき、すでにそこは人があふれれかえっていて、僕の周りはすっかり混乱状態さ。川からその様子をみるまでもなく、何が起こっているのか、感づいていた。その頃には、そういうことを嗅ぎ分ける六感がだいぶ発達していたんだ」
「完璧に妄想症にかかったようだった。だけどすべて現実に起こったんだ。それが僕を打ちのめしたんだ。その後、僕は意識を失って倒れてしまった。僕が過労でブレークダウンの状態になったとき、人々は僕を閉鎖的な人間だと言い始めたんだ」
「3枚のマルチ・ミリオンセールスを記録したアルバムと、2回にわたるワールドツアーの後に起こった出来事は、a-haの終焉を示すきっかけとなった。その後、チャートの記録は下降する一方だった。しかし、その後も南アメリカでは注目を集めた。
1991年に、モートンは、ロック・イン・リオ・フェスティバルで、20万人もの観客の前で歌った。その日のことを、彼はこう語っている。「僕らのことを12時間も待ちつづけてくれた、ものすごい数の群衆の前でステージに立った時、僕は何も感じなかった。自問したよ。『一体何が欲しいって言うんだ。これ以上のものは絶対に望めないのに』とね」
モートンは、一からやりなおすことを決意した。しかし、フォトセッションのカメラの前では、胸をあわらにして立っている。彼がそうすることでソロ・キャリアの成功を助けるのを望んでいるとしたら、アイドル時代と何が変わったというのだろうか。
「まず、自分で曲を書いたんだ。a-haではやったことがなかったよ」モートンは、誇らしげに語った。
「ボスニアと、ティモールの政治的な状況に影響された曲を書いた。その曲には強い思い入れがあるんだ。それからサンセット大通りの23歳の売春婦についての曲もある。ヒュー・グラントの売春事件の前に書いたものだ」
a-haから自由になって、人生の展望がすっかり変わったと言う。それゆえ、肌を見せたピンナップ用のポーズを取ることへも問題は無いという。
「あまり神経を尖らせないことを学んだんだ。自分の見た目がいいとは思わないよ。だけど、(プロモーションのための撮影などに)周りと調子を合わせることを学んだ。他の人が望むのだったら、そうさせてあげるさ」
モートンとカミーラは、ハンプシャー(イギリス)、スウェーデン、ノルウェーにある家に生活の場を振り分けているが、近々スカンディナビアに永住することを考えている。3人の子供たちと共にモートンが幸せで安定した家庭を築いているからこそ、すぐ答えが出たのだろう。
「3人の子供がいるからといって、単純に幸せとは限らない。そういう考え方を止めなければならないよ。今の僕に必要な無秩序のうちの一部分だよ」
もっと子供が欲しいかと尋ねるとこんな答えが返ってきた。
「わからないよ。誰と子供を作るかなんてわからないし、知りたくないし、答えを決めたくない。別に無差別に乱交をしたいというわけじゃないよ。そんなことには魅力を感じない。それと同時に、実際世界中のどの女性の上にもまたがれる気分にもなるんだ。僕は性的欲求がとても強い。どの男性よりも強いと思うよ」
そういうことは、奥さんの耳にはあまり心地よくないのでは
「ああ、彼女は僕がこういうことを言っても気にしないよ。実際に行動にうつしたら気にするだろうけれどね」
「自分の人生を思い切り生きたい。だけどそれはあちこちでセックスすることを言っているのではないよ。たくさんの女性にその気にさせられるけれどね」
それではどうやって自分の欲求をコントロールしているのだろうか?
モートンは笑って答えた。「彼女たちのベッドルームの壁から、見つめるだけで我慢できるよ」
「全てに疲れ果てた状態に陥ってしまったんだ」とモートンは当時を振り返る。「僕の体は腫れ物だらけになってしまった。味覚がまったく無くなってしまい、色盲になってしまった。全て無味乾燥になってしまい、まるで自分が灰皿になってしまったみたいだった。まるで96歳の老人になったように感じて、生きていくのが嫌になってしまった」
「世間やマスコミの要求に殺されかねなかった。エルビス(プレスリー)もこれに殺されてしまったんだ。自分でコントロールする方法がわからなかったり、そこから離れるタイミングを知らなかったら、いずれだめになってしまう。過労で倒れることで、自分自身を正常な状態に戻す必要があった」
a-haは立て続けに8枚のシングルをトップテンに送りこんだが、それから7年経った今姿を見せることは無く、(活動停止は)永久的なものになってしまったようだ。モートンは35歳になり、すっかり生気を取り戻した今、ソロアーティストとして喧騒のポップビジネスへ返り咲こうとしている。
ファーストシングルの『A Kind of Christmas Card』とソロデビューアルバム『Wild Seed』をリリースする準備をしているが、モートン自身、a-haと同じレベルの商業的成功を望むのは難しいことを十分承知しているようだ。
「(商業的な成功については)心配していないんだ。a-haと同じレベルの成功を望んで、プレッシャーを感じているわけではないからね。競争したり比べることにまったく興味は無い。このアルバムが、(アーティストとして)今後も続けていける程度に成功してくれたらそれで満足だよ」
モートンは、『Take On Me』や『The Sun Always Shines on TV』がヒットした当時のa-haが経験した狂乱状態を再び経験することを望んでいない。
スターになることは、モートンにとって17歳の頃からの夢だった。そして、8年後のある日突然その夢がかなうことになった。1985年にファーストシングルの『Take On Me』が世界中で大ヒットしたのだ。モートンと、バンド仲間のポール・ワークター、マグス・フルホルメンは、早くからスターの現実に幻滅することになった。
「どこへ行っても、ものすごい美人が僕の足元にひれふしたものだよ。だけど、それに便乗したことはなかった。それでは簡単すぎるよ。僕はいつでも自分で追いかけて獲物を捕らえるほうが魅力的だと考えていた。だから、小鳥たちを簡単に手に入れることはしなかった。胸をはって言えるよ」
現在、モートンはスウェーデン人女優のカミーラと結婚していており、上は6歳から下は2歳まで3人の子供がいる。「はじめは、世間の注目やら成功を楽しんでいた。楽しかったし、素晴らしい時もあったんだ。だけど、成功するためだけに働いていたことはなかった。僕らにとって、音楽が重要なものだった。(音楽的に)成長することを許されないのがとても悲しかった。たくさんの人に依存されるようになって、a-haは、ハンバーガーみたいにレコードを大量生産するポップミュージックの工場に成り果ててしまったんだ」
「スターの座にいたときは公共物として、世間が思いこんでいるような有名人としての行動を求められた。3年後には、もう十分だと思ったよ」
ファンの目から逃れるためにアマゾン旅行に出たが、そのとき起こった事件は、ついにモートンの忍耐の限界を超えてしまった。
「人里離れた小さな集落にある小ぢんまりとした宿屋に泊まっていたんだ。」モートンは思い出を語る。「インディアンの村へ向かうためにカヌーで川上へ向かった。宿に戻ったとき、すでにそこは人があふれれかえっていて、僕の周りはすっかり混乱状態さ。川からその様子をみるまでもなく、何が起こっているのか、感づいていた。その頃には、そういうことを嗅ぎ分ける六感がだいぶ発達していたんだ」
「完璧に妄想症にかかったようだった。だけどすべて現実に起こったんだ。それが僕を打ちのめしたんだ。その後、僕は意識を失って倒れてしまった。僕が過労でブレークダウンの状態になったとき、人々は僕を閉鎖的な人間だと言い始めたんだ」
「3枚のマルチ・ミリオンセールスを記録したアルバムと、2回にわたるワールドツアーの後に起こった出来事は、a-haの終焉を示すきっかけとなった。その後、チャートの記録は下降する一方だった。しかし、その後も南アメリカでは注目を集めた。
1991年に、モートンは、ロック・イン・リオ・フェスティバルで、20万人もの観客の前で歌った。その日のことを、彼はこう語っている。「僕らのことを12時間も待ちつづけてくれた、ものすごい数の群衆の前でステージに立った時、僕は何も感じなかった。自問したよ。『一体何が欲しいって言うんだ。これ以上のものは絶対に望めないのに』とね」
モートンは、一からやりなおすことを決意した。しかし、フォトセッションのカメラの前では、胸をあわらにして立っている。彼がそうすることでソロ・キャリアの成功を助けるのを望んでいるとしたら、アイドル時代と何が変わったというのだろうか。
「まず、自分で曲を書いたんだ。a-haではやったことがなかったよ」モートンは、誇らしげに語った。
「ボスニアと、ティモールの政治的な状況に影響された曲を書いた。その曲には強い思い入れがあるんだ。それからサンセット大通りの23歳の売春婦についての曲もある。ヒュー・グラントの売春事件の前に書いたものだ」
a-haから自由になって、人生の展望がすっかり変わったと言う。それゆえ、肌を見せたピンナップ用のポーズを取ることへも問題は無いという。
「あまり神経を尖らせないことを学んだんだ。自分の見た目がいいとは思わないよ。だけど、(プロモーションのための撮影などに)周りと調子を合わせることを学んだ。他の人が望むのだったら、そうさせてあげるさ」
モートンとカミーラは、ハンプシャー(イギリス)、スウェーデン、ノルウェーにある家に生活の場を振り分けているが、近々スカンディナビアに永住することを考えている。3人の子供たちと共にモートンが幸せで安定した家庭を築いているからこそ、すぐ答えが出たのだろう。
「3人の子供がいるからといって、単純に幸せとは限らない。そういう考え方を止めなければならないよ。今の僕に必要な無秩序のうちの一部分だよ」
もっと子供が欲しいかと尋ねるとこんな答えが返ってきた。
「わからないよ。誰と子供を作るかなんてわからないし、知りたくないし、答えを決めたくない。別に無差別に乱交をしたいというわけじゃないよ。そんなことには魅力を感じない。それと同時に、実際世界中のどの女性の上にもまたがれる気分にもなるんだ。僕は性的欲求がとても強い。どの男性よりも強いと思うよ」
そういうことは、奥さんの耳にはあまり心地よくないのでは
「ああ、彼女は僕がこういうことを言っても気にしないよ。実際に行動にうつしたら気にするだろうけれどね」
「自分の人生を思い切り生きたい。だけどそれはあちこちでセックスすることを言っているのではないよ。たくさんの女性にその気にさせられるけれどね」
それではどうやって自分の欲求をコントロールしているのだろうか?
モートンは笑って答えた。「彼女たちのベッドルームの壁から、見つめるだけで我慢できるよ」
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単独での成長 モートンは新たなa-haのプロジェクトに向けて多くを学んだ <by Gro Rognmo VG 15/07/95>
訳:あきこ
モートン・ハルケットの、世界的に進出しつつある、ソロアーティストとしてのキャリアはa-haにも活用できるであろう。モートンは新たに多くの事を学んだのだ。
「1人になる事は、全くもってためになる事だと思う。このアルバム(Wild Seed)を作るのは、信じられないくらいのチャレンジでもあったし、教訓的な事でもあった。たくさんの事を学んだよ。彼らとの今後の共同作業に活かせる事も含めてね。彼らというのは、ポール・ワークターとマグネ・フルホルメンさ」
a-haは活動を休止する時期に来た。自然と彼らは休止中にそれぞれのプロジェクトに取り掛かった。
「ソロアルバムは僕にとって、片手間でやっているような物じゃなくて、100%メイン・プロジェクトなんだ。ポールとマグスとまた一緒になったら、同じように、a-haがメイン・プロジェクトになるだろうね」とモートンは語る。
アルバムWild Seedでモートンは作曲家としてデビューし、曲を作る上で先頭に立った。
「a-haでは、ポールやマグスの作曲に加わらせてもらうという感じに過ぎなかった。今は1人でやってるよ。サインを書く代わりに曲を書くようになったってわけ。この方がずっと僕の成長には役立つね」と彼は笑う。
アルバムタイトルにもなっているWild Seedは、詞も曲もモートンが作った。ほとんど讃美歌のように歌い上げているLay Me Down Tonightの曲をモートンが作ったのは、’83年にまでさかのぼる。そして、(Lay Me Down Tonightの)詞は詩人、ホーバート・ラムが書いている。
「ホーバート・ラムとは刺激的な仕事ができたよ。彼は、まぁ、あらゆる素材に対して詞を書いた。曲よりも詞によってアルバムの方向性が決まったね」とモートン。
昨日、VGの批評家が今月末にリリースされるシングルA Kind Of Christmas Cardについて批評を書いている。彼は、ハルケットがa-haを離れ、大きな一歩を踏み出した、と記している。モートン自身、(a-haとは)全く別の仕上がりになったのは当然との意見。しかしながら、彼にとって(ソロとa-haでのアルバムの仕上がりを)比較するのは難しい事である。特に、新しいアルバムがライヴ形式で制作されていったのに対し、a-haのこれまでのアルバムはスタジオで作られていったからだという違いがあるせいもある。
「全く別の世界みたいなものなんだ。僕はライヴ形式の方が好きだね。ライヴに病みつきなんだ」と、温もりのある声でモートンは心の内を語った。
モートンのモットーは「知る所少なければ、学ぶ事より多し」というもの。モートンはこのモットーを、作曲にも、アルバムのリリースにも、また、ソロアーティストとしての彼自身に関しても当てはめている。
「何事にも良く耳を傾けるようになったよ。分かるかい?なにしろ僕の仕事の源なんだからね」
全世界でリリースされるという、自分ではコントロールしきれない事に直面しているにも関わらず、彼はナーバスにはなっていない。
「何かを発表するのって、狼に向かって骨付き肉を投げるようなものさ。どんな結果になったにしろ、僕が経験したことのないような事が起こるはずはないね」とモートンは言う。
ワークターも新譜発表
ポールとローレンのワークター夫妻によるSavoyは、アルバムリリースが年明けに持ち越される見込み。
最たる理由は、同じa-haのメンバーであるモートン・ハルケットの8月28日発売のアルバムWild Seedの発表と重なるため。アメリカとヨーロッパで同時発売になるアルバムに対して、彼らのレコード会社であるワーナーは、片方だけのアルバムリリースが注目されるのを防ぐ方針。
モートン・ハルケットは早くも7月31日にシングルA Kind Of Christmas Cardを引っさげてやって来る。
「ソロアルバムは僕にとって、片手間でやっているような物じゃなくて、100%メイン・プロジェクトなんだ。ポールとマグスとまた一緒になったら、同じように、a-haがメイン・プロジェクトになるだろうね」とモートンは語る。
アルバムWild Seedでモートンは作曲家としてデビューし、曲を作る上で先頭に立った。
「a-haでは、ポールやマグスの作曲に加わらせてもらうという感じに過ぎなかった。今は1人でやってるよ。サインを書く代わりに曲を書くようになったってわけ。この方がずっと僕の成長には役立つね」と彼は笑う。
アルバムタイトルにもなっているWild Seedは、詞も曲もモートンが作った。ほとんど讃美歌のように歌い上げているLay Me Down Tonightの曲をモートンが作ったのは、’83年にまでさかのぼる。そして、(Lay Me Down Tonightの)詞は詩人、ホーバート・ラムが書いている。
「ホーバート・ラムとは刺激的な仕事ができたよ。彼は、まぁ、あらゆる素材に対して詞を書いた。曲よりも詞によってアルバムの方向性が決まったね」とモートン。
昨日、VGの批評家が今月末にリリースされるシングルA Kind Of Christmas Cardについて批評を書いている。彼は、ハルケットがa-haを離れ、大きな一歩を踏み出した、と記している。モートン自身、(a-haとは)全く別の仕上がりになったのは当然との意見。しかしながら、彼にとって(ソロとa-haでのアルバムの仕上がりを)比較するのは難しい事である。特に、新しいアルバムがライヴ形式で制作されていったのに対し、a-haのこれまでのアルバムはスタジオで作られていったからだという違いがあるせいもある。
「全く別の世界みたいなものなんだ。僕はライヴ形式の方が好きだね。ライヴに病みつきなんだ」と、温もりのある声でモートンは心の内を語った。
モートンのモットーは「知る所少なければ、学ぶ事より多し」というもの。モートンはこのモットーを、作曲にも、アルバムのリリースにも、また、ソロアーティストとしての彼自身に関しても当てはめている。
「何事にも良く耳を傾けるようになったよ。分かるかい?なにしろ僕の仕事の源なんだからね」
全世界でリリースされるという、自分ではコントロールしきれない事に直面しているにも関わらず、彼はナーバスにはなっていない。
「何かを発表するのって、狼に向かって骨付き肉を投げるようなものさ。どんな結果になったにしろ、僕が経験したことのないような事が起こるはずはないね」とモートンは言う。
ワークターも新譜発表
ポールとローレンのワークター夫妻によるSavoyは、アルバムリリースが年明けに持ち越される見込み。
最たる理由は、同じa-haのメンバーであるモートン・ハルケットの8月28日発売のアルバムWild Seedの発表と重なるため。アメリカとヨーロッパで同時発売になるアルバムに対して、彼らのレコード会社であるワーナーは、片方だけのアルバムリリースが注目されるのを防ぐ方針。
モートン・ハルケットは早くも7月31日にシングルA Kind Of Christmas Cardを引っさげてやって来る。
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