基本情報
◆Paul Waaktaar-Savoy
◆1961年9月6日、ノルウェー、オスロ(Tonsenhagen)生まれ
◆家族は、薬剤師の父親、電話会社に勤める母親、2つ上の姉のTongje(※職業は1985年当時)
◆身長は182センチ
◆目の色はグリーン
◆髪の色はブロンド
◆お気に入りの作家はKnut Hamsun(※1985年回答)
◆お気に入りの映画はRumblefish(※1985年回答)
◆学生時代のお気に入りの教科は数学(※1985年回答)
◆お気に入りの食べ物は山羊のチーズを乗せたベーグル(※1985年回答)
◆1991年12月21日にデビュー前から恋人で、フィルム・ディレクターをしているローレン・サヴォイと結婚
◆1999年8月3日に息子、True August、愛称「Augie」誕生
◆現在の住まいは、ノルウェーとニューヨーク
◆名前の表記について
結婚前の名前は、Pål Gamst Waaktaar(ワークターは母親の旧姓)。デビュー当時はPål Waaktaarで、ずっとその名前を使っていたが、結婚してからは、Paul Waaktaar-Savoy と名乗っている。a-haではシングル『Shapes That Go Together』からこの名前、アメリカでは、Paul Savoy という名をSAVOYのアルバム『Mary Is Coming』で使っている
a-haデビュー前ロンドンにて
◆「ローレンはダンスフロアにいた。彼女はつい2日前にロンドンに来たばかりで、ひどいアメリカの服でCamden Palaceに現れたんだ。完ぺきに場違い。僕は何も出来なかったけれど、そんな彼女に恋をしたんだ!」
ポールは、ロンドンへ勉強のためにやって来ていた、ボストンからの才能溢れるユダヤ人の女性、ローレン・サヴォイと出会い、激しく恋に落ちた。その頃夜になると、最新流行のディスコでは、Camden Palaceがロンドンに訪れる若者たちにとっての必修プログラムの1つとなっていた。それで、多少しぶしぶではあったが、ローカル・ファッションの傾向をちょっとだけ理解しようと、ローレンは数人と友人とCamden Palaceの大きな再建されたシアターにやってきたのだ。
その晩の客には、ほとんど常連であったa-haの他に、クラブのマネージャーで、人気が下り坂のグループVisageのシンガー、Steve Strangeがいた。(彼は以前、モートンの下半身をぎゅっと掴んで、一晩一緒に過ごそうと説得したことがある。モートンが自分はゲイでもバイでもない、完ぺきなストレートだ、と告げると、彼は身を離して「何てつまらないの!」と不平を言った。)音楽業界に大なり小なり影響力を持っている誰もが、遅かれ早かれCamden Palaceに現れる、だから出会うには良い場所だった。その上、マグスはクラブの長い混雑したバーから、飲み物を盗むのがとても簡単だと発見していた。
その晩のポールは、いつものことだったが、ドラキュラの娘や服装倒錯者と争えるような恰好をしていた。ギターの弦のように痩せていて、髪を白くし、顔には茶色のメーキャップを過剰に塗っていたポールは、とても健康なノルウェー青年の典型とはほど遠かった。自然や野性味の欠如を補うため、別の惑星から取り寄せたような合成の虎の皮を身につけていた。その上にバッファローの皮のツーピースのスーツ。
ローレンもまたとても目につく恰好をしていた。ポールは、ドレスアップしたかかし達の中で浮いている、長い黒い髪を持った慎み深く、気取らない女性に気付いた。ポールは革のブレスレットとヘアジェルをぷんぷんさせながらローレンの周りをうろつき、彼女の正気を失わせるほどに怯えさせた。
ポールは、それが本当に重要だという時、いつも衝動的に行動することができる。最初にローレンを見た時から、彼女が自分の生涯唯一の女性だと分かっていた。ポールは熱心にアプローチし、ローレンも最初は懐疑的であったが、ついにまたポールと会うことに同意した。
両手に汗をかきながら、2人はQueenswayにあるアメリカン・レストラン、The Texas Lone Starで最初のデートをした。熱心なカントリー・バンドが信じられないほどやかましく演奏している中、ローレンは緊張からとても早口で話をしたので、ポールはたった1文もまともに理解出来なかった。しかし静かに座り、ローレンの目を深く見つめたまま、時々感情をこめてうなずいた。この作戦は上手くいき、ローレンは後にこう語っている。「ポールは私が今までに会ったことのある人の中で、最も知的な人だと思ったわ。とっても聞き上手!」
◆くすくす笑いながら、2人の少女がスタジオに入って来た。マグスは這いつくばりながら、うまく動かないアンプとの格闘に集中していた。コントロール室のデスクの向こうに座っているポールはそこから見えない。「来たわよ、ポール」2人の少女はくすくす笑いながら、声を揃えて言った。「ワインを持ってきたわ。あら、ポール、このボタンを見てよ!」
ポールは神経質そうに歯を噛んだ。ポールはこの2人のやせっぽちのオスロの少女達をスタジオに来るように招いたのだ、多分同じ国だという衝動的な気持ちから。a-haがワーナーと契約したという夢のような話が、母国に気付かれないでいられるはずがなかった。プレスは既にポップヒーローの像を、ノルウエーの少女達の胸に刻み始めていた。a-haは良い呼び物になっていた。そして少女達は喜んでやって来た。
2人の少女は、誘惑するオンナという役に酔いしれていた。しかし濃いメイク、大胆な服と仰々しい動きも、誰かがアルコール法を破ってロゼワインを2人に与えたのだという事実を隠すことは出来なかった。しかも既に数本のボトルが開けられていた。
「えっと…」ポールはどもりながら言った。「ええ、ああ、ゴホン、ゴホン、来たんだ、きみたち。今日ここで会うとは思ってなかったなあ」
「あら、でもポール、私たち、あなたの邪魔はしてないわよね?」と1人の少女が官能的にいなないて、ポールの汗をかいた額を冷たく湿っぽい指で撫でた。
「え、いや、いや。もちろんそんなことはないさ。ただ僕らは5、6曲伴奏を決めて、シングル用にB面をいくつかミキシングしようと思っていたから。大した問題じゃないよ、ははは」
「あなたもワインを飲んでよ」ともう1人の少女があえぐように言い、自分の細くて高いヒールにつまずいた。ポールとコントロールデスクは、発泡性のロゼワインの洗礼を受けた。
「まあ!」罪深き2人の少女は驚いて声をあげた。
「何てこった」ポールはため息をついた。
コントロールデスクは衝撃音と共にショートして、メーターはゼロまで下がった。
マグスがアンプから顔をあげ、膝をついて起きあがった。正面に見えたのは、シースルーのブラウスで自分たちのやり方を強要しようとしている、2人の女性の特大サイズの胸だった。コントロール室で、ポールは痛々しいほどに困り果て、まっすぐに凝視して座っていた。
「コントロールデスクがショートしちゃったよ、マグス」
「あら、あなたがマグネなの!」胸の持ち主はそう言って、酔っぱらった抱擁でマグスを溺死させようとした。
家へと向かいながら、マグスは疲れ果てていた。
「何だよ。今日スタジオにグルーピーを呼んだなら、そう言ってくれれば良かったのに!」
ポールはどうしようもないだろう、という仕草をした。
「僕に何が出来たって?あの子たち、16歳だよ!」
◆ポールは膝の上にギターを抱え、じっと考えながら多くの夜を過ごしていた。楽器でいくつかのメロディーを選んだり、次のステップの計画を立てていても、彼の考えを独占していたのはいつもバンドのことだった。偉い人に直接アタックするのが不可能なことは、すでによく分かっていた。約束を取り付けるには、身元保証人が必要だ。エージェントか、マネージャーか、出版社か、誰か。そこでポールは、前の年に話をしたライオンハート出版社を思い出した。Poem(※Bridgesはアルバムリリース後、バンド名をPoemと変えました。)はもちろん断固として断られていたが、今は状況が違う。誰も10年後のa-haを非難することは出来ない。
ついに3人は探していたものを手に入れた。ライオンハートが彼らに会うことを望んだのだ。
面会が行われるはずだった前日の夕暮れ、マグスはDalgarno Gardensをシェアしていた友人たちを部屋から出す手助けをしていた。彼らがすぐにタクシーが必要だというようなことを言ったので、マグスは彼らを追い出す機会を逃してはならないと思い、肩にシャツをかけ、足にはすり切れた靴下だけという恰好で、通りに走り出た。「タクシー!」と誰かが叫ぶ前に、マグスは車の屋根の上に這い出し、待機中の警官に掴まえられた。
警官のホイッスルはけたたましく鳴り、2分後、マグスは驚いた友人たちと警官の大騒ぎに囲まれて立っていた。その晩、売春婦とわいせつな同性愛者とともに、マグスは湿った独房で凍えながら一夜を過ごした。
マグスは『酩酊と無秩序』の罪で、翌朝10ポンドの罰金を課された。その部屋には、財布を開けたポールもいた。
モートンは2人よりもラッキーだった。同じ朝、ライオンハートで彼らはついにNærsnesで秋に作ったデモテープの評価を得た。とても評判が良く、契約も間近だと暗に言われた。ただ1つ問題があった。ライオンハートのリチャードは、新曲でもっと良いデモが必要だ、そしてそれにかかる資金はもちろん自分たちで用意しなければならない、と述べたのだ。そんなお金はなかったし、ノルウェーに帰るしかない。ポールはイギリスにとどまった、おそらく連絡係が必要だろうということ、しかし主に不名誉なことに直面するのを避けるためだった。
3月の半ば、ノルウェーのDikemark病院では、働き手を必要としていた。モートンとマグスは3週間をそこの人々と過ごした。空き時間には同情的な友人たちと共に不本意な旅を祝った。モートンは去年会ったきりのArild Fetveitとまた会うことも出来た。
Sporty Morty and the Houserockersという魅力的な名で、2人はホットハウス(オスロのナイトクラブ)に戻ってきた。この時は壁からヒューズを吹き飛ばすような音楽をした。その晩は奇妙な終わり方だった。ステージから遠く離れた、暗いコーナーの1つのテーブルに座っていた金持ちの気取り屋が、ショーを買い取るぞという勢いのアーティストにシャンペンの大瓶を送ってきたのだ。
イギリスで、ポールは自分の美意識を全うした生活を送っていた。モートンとマグスがノルウェーに旅立ってすぐに、Dalgarno Gardensから引っ越した。次の数週間は、町で一番安い食べ物、中華料理のお持ち帰りを食べて、最低の生活水準で生活をした。ポールはバラックに住み、1日に1ポンドも食事を取らなかった。そして音楽作りに専念した。
1人になってから1週間、ポールは2人の大麻を吸うエンジニアに会った。彼らの煙いスタジオで、ポールは装置を扱い、結果としていくつかのテープとひどい頭痛が残った。
モートンとマグスが4月の初めに戻ると、ポールは2人と一緒にホテルの部屋へと引っ越した。記録的な時間で、3人はQueensway近くのOrfalay Houseにきちんとしたアパートを見付けた。そしていろいろな音楽刊行物をざっと見て、町の8つのスタジオに目を付けた。
SydenhamにあるRendezvousスタジオを選んだ、マグスによると、スペース・インベーダーのゲームマシンがあると宣伝に載っていたのは、そこだけだったから。あいにく3人が思っていたよりも、設備に慣れるには時間がかかった。予約した時間がなくなってきた時、まだテープには2曲しか入っていなかった。スタジオをもっと借りるということは、3人がアパートを去らなければならないということを意味していた。そして、そのすぐ後には、アパートだけでなく、祖国へも…。
同時に、3人がまだ想像することも出来なかった結果を起こす、あることが起き始めていた。
スタジオのマネージャー、ジョン・ラトクリフは3人の外国人に気付いていた。おそらく、自分たちの紹介をするなどという、Rendezvousスタジオではめったにやらないようなことを3人がして、彼を驚かせたからだろう。彼と話をしに来る人は、不平や値段の交渉ばかりだったのだ。ラトクリフは3人のテープを聴き、『Dot the I』というナイーブで魅力的な曲を気に入った。ポールが料金を支払うために彼のオフィスに来た時、ラトクリフは業界で影響力のある彼の友人に、3人のテープを聴かせてみたいがどうか、と言ってきた。3人は藁をもつかむ思いで、このチャンスを掴んだ。
一方、ライオンハートへの3人の信頼は、かなり冷えていた。デモが出来あがったが、これから数ヶ月は何も起こらないだろうと言われた。上の人の注意を引くには時間がかかるのだ。a-haは、もし9ヶ月の内にライオンハートが彼らのためにレコーディング契約を取れなくても、契約を取りやめる以外の権利を一切持たないという契約を申し出られた。小さな出版会社は、お金ではなく、時間を提供したのだ。
ポール、マグスとモートンは、思いきった手段に出ることにした。ライオンハートに、ジョン・ラトクリフにテープを渡し、彼はそれをテリー・スレイターという人物に渡すのだと告げるのだ。ライオンハートから前払い金を絞り出すため、すべての武器を意のままに使え。
リージェント・ストリートのランチ・カウンターで30分ほど話し、3人の計画は用意が出来た。ポールはライオンの住みかへと向かった。ポールが爆弾を落とすまで、全ては微笑みと和やかな雰囲気にあった。爆発。10分後、灰となり、汗びっしりになりながら、ポールは2人のところに戻ってきた。侮辱の言葉が、まだポールの耳に鳴り響いていた。
静かで、意気消沈した週末であった。ラトクリフからの返事はまだなく、みじめさでいっぱいだった。彼らに残っていたのは、この5ヶ月間苦労してやってきた全てが無駄に終わるという不愉快な確信だけだった。
月曜の朝早く、とても機嫌の良かったポールは、Orfalay Houseの階段と、部屋に入るときにつまずいた。ホールで電話が鳴り、3人は電話の音に起きていた。電話の主ははジョン・ラトクリフだった。「テリーが気に入ったぞ!」
◆テリー・スレイターのデモ・テープへの熱意が何を意味しているかは、3人はこの時まだ分かっていなかった。彼が関心をもってくれたのは、暗い空にたった1つの導きの星だ。a-haは金、契約、問題の解決、何も持っていない。ライオンハートは今や敵側であり、スレーターの関心は彼らの最後の希望だ。3人は素晴らしい鳥が、その羽を自分たちの方までのばし、守ってくれることになったのだということを、ゆっくりと理解し始めていた。
テリー・スレイターは音楽業界の伝説であった。彼の新人発掘の能力は、EMIの超高層ビルの天辺へ彼を導いていた。彼は皆から敬意を払われていたが、その敬意というのはビジネスを上手くやりくりするからというよりも、有名アーティストだけではなく、結局のところ音楽が作られている草の根レベルのロックの世界をよく理解しているからだった。ビートルズが60年代初期、ハンブルグでビールやサンドイッチ、お小遣い欲しさに演奏をしていた頃、スレーターは既にビートルズと会っていた。そして10年、エブリィ・ブラザーズと一緒に歌を書き、ベースを演奏していた。
テリー・スレーターはレコード業界の上の人間を知り尽くしていた。そして彼らは、彼と彼の発見した黄金の卵たちをよく知っていた。スレーターは、クィーンをEMIに連れてきた人間だ。後に彼は、ケイト・ブッシュ、デュラン・デュラン、カジャグーグーのようなアーティストも掴まえている。a-haのデモテープを聴いた頃、スレーターはちょうど自発的に会社を離れ、仕事をしていない状態であった。彼は自分の才能、経験、影響力をたった1つのプロジェクトに注ぎ込みたいと思っていた。そのプロジェクトは、絶対的に信頼をおけるものでなくてはいけない。カジャグーグーのリマールは既にスレーターと連絡を取っていて、マネージャーとして力を貸す契約をして欲しいと望んでいた。スレーターはそれを、丁寧だがきっぱりと断った。彼はもっと大物を狙っていたのだ。
EMIで働いていた時、スレーターはフロントマンとソングライターがジョン・ラトクリフという名のグループとほとんど契約するところだった。ところが会社はデュラン・デュラン売り出しに多くの予算を確保していたので、結局、元スタントマンで短距離選手、さらにレースカードライバーだった彼とはレコード契約をしなかった。しかしラトクリフとスレーターは連絡をとり続けた。契約がなくなった補償として、ラトクリフはEMIから1万ポンドの要求をし、信じられない大胆さで、彼は実際にそれを受け取った。このお金を使い、苦労してラトクリフはRendezvousスタジオを建てた。後にa-haが魅力的なマナーと魅惑的な音楽と共にやってきたスタジオである。
スレーターの熱意は、ジョン・ラトクリフが必要としたものだった。正真正銘のワーカホリックのように、彼は持っている全てをa-haへと注いだ。3人はすぐにもっと多くの曲作りをするようにと言われた。時間と通勤のお金を節約するために、Rendezvousの近く、221 Dartmouth Roadにアパートを見付けた。行き詰まりから救われたことで有頂天になった3人は、新曲のレコーディングに夢中になった。次の数週間の間にレコーディングされた5、6曲は、ジョンとテリーを小躍りさせた。元々2人はa-haでシングルを出そうと考えていたが、すぐにもっと大きなことをしていいいのだということが明らかになった。テリーはa-haに教えた、彼が彼らをトップへと導く計画をしていること、レコード契約への最初の正式なステップとして、T&Jマネージメントを作ったことを。
T&Jマネージメント(T&Jはテリーとジョンを表す)はa-haと運命を共にすることになるだろう。a-haが音楽を提供している間、2人の英国人はマネージメント全般の世話をする。収入は25%がそれぞれのバンドメンバーに、残りの25%をテリーとジョンで分けるようにする。
マネージメントの取引が決まるとすぐに、テリーはいくつかの音楽出版社に働きかけ始めた。そのような会社との契約は、権利を任せてしまうというより、自分たちの曲の権利をa-haが管理するということを保証するのに必要だった。その間、ジョンは自分のポケットマネーで、金の卵を産むことを望みながら、ガチョウたちの家賃と食費を払っていた。彼は長い間待つ必要はなかった。
1983年6月、ビートルズの曲の権利を所有している会社、ATVのPeter Cornishは、Rendezvousの薄暗がりと混雑している部屋で、ワイヤーとマイクスタンドの間でのa-haの初ライブパフォーマンスを聞いた人々の中にいた。彼らの演奏は、Cornishの心に確かな物を残した。契約のすぐ後には、3000ポンドの前金がテーブルに置かれていた。これは、ポール、マグス、そしてモートンが初めてSydenhamのスタジオを訪れるために、Forest Hill駅で列車を降りてから、まだ2ヶ月経っていない出来事だ。
しかしテリー・スレイターはそんなもので満足したりはしなかった。いくつかの懐疑的なレコード会社のために7月に同様のパフォーマンスを準備した。RCA、EMI、ワーナー・ブラザーズ、CBS、そしてフォノグラムといった大手のボスだけが招待された。テリーはa-haが最高の経済的、技術的サポートを得られるという保証が欲しかった。
6月になり暖かくなった。Sydenhamで、a-haは楽器の調整をしていた。
アンドリュー・ウィックハムは、Wardourストリートにある会社を後にし、ロンドンでも貧しい地区のひとつにある小さな地下の部屋へと歩き回った。彼はこの町にいる数ヶ月間、何の結果も得られないまま、こうしてあちこち歩き回っていた。
同じ週の初めに、彼はEMIのスカウト部ヘッドの仕事を辞めたばかりの昔の同僚から電話をもらった。副社長のウィックハムはこの時、会社が探しているアーティストの類ではない、口が悪くて短気なミュージシャンとは会わないとことにしていた。ワーナーのマネージメントはちょうど稼ぎのないミュージシャンを一掃し、半分にしたところだったが、イギリスでは彼らの代わりを見付けるのは容易ではなかった。彼は探しまくっていたが、今のところBurbankに報告するような人材は見付けていなかった。そして今、スレイターのプロジェクトの番が来た。Rendezvousスタジオで、小さな練習室で演奏するための伴奏のテープが準備されていた。ポール、モートン、そしてとても眠そうなマグスは、少しも緊張している様子もなく、彼らの楽器、ピン・ボールゲームと鏡の間をうろうろ歩いていた。
そこでワーナーの彼は椅子に反り返って座り、スレーターは彼の横に座った。a-haは彼らの持つ音楽、舞台での魅力の全てを総動員して演奏した−まだポーズでの経験がほとんどなかったので、その時は自然にまかせるしかなかった。
アンドリュー・ウィックハムは見て、そして聴いた。数分後には気持ちは決まった。
「テリー、こいつらを俺にくれ−100万出すよ!」
※参考『Så blåser det på jorden』『Boken om A-ha』他
子ども時代
◆ポールが1歳の頃にTonsenhagenからManglerudに引っ越している。
◆クラシック好きの両親は、ポールが小さい頃から、コンサート、オペラ、バレエ等に連れて行っていた。
◆学校の成績は普通より少し良いくらい。しかし余り勉強熱心ではなかく、音楽と絵を描くことが好きだった。
◆Manglerudの学校に退屈し、Nordstrandの学校に転校。そこは男子だけのクラスだった。
◆ベルボトムを履き、長髪にして、教室にジミー・ヘンドリックスのポスターを貼った。
◆友だちは2人、クラスでは異端な存在であったが、馴染もうとも思わなかった。
◆ある女性教師は、夏休みの間、ポールをアート・ショーに連れ出し、一緒に絵を描いた。絵を描くことへの興味の基盤は、この時にできた。
◆10歳の時、木製のフルートで詩にメロディーを作った。『I Sing a Song of the Wind』まだそのメロディーは覚えている。
◆ミュージカル『Hair』のレコードは何度も繰り返し聴いて、ドラムセットを自作して、レコードに合わせて演奏した。
◆奥手だったポールは、童貞のまま死ぬだろうと思っていた。
◆13歳の時、ポールに恋をした同い年の女の子は、友だちを連れてポールを呼びに家に来たので、おびえたポールは家に近寄れなくなってしまった。
◆ファーストキスは18歳の時。相手はマグスのガールフレンドで、マグスとケンカをして焼き餅を焼かせるために、わざと目の前でキスをして見せた。3日後に2人は仲直りし、ポールの恋は終わった。以来、断られることにさらに臆病になったポールは、ガールフレンド探しに気を取られないことに決めた。
※参考『Så blåser det på jorden』『Boken om A-ha』他
a-ha結成前
◆マグスの家の地下室を借りて音楽に夢中になった。
◆ベースはHarald OdegardからViggo Andreas Bondiに替わった。Viggoの参加により、音楽にさらにのめり込み、誰もポールとマグスの情熱を止めることは出来なかった。ある日、Jan Erik Odegardがドラムセットと共に去り、代わりにViggoの友人のErik Hagelienが入った。
◆ジム・モリソンの叙述的な詞に鼓舞され、ポールの書くものは詩的になった。
◆つまらない教師や理解のない両親に対する不平以上のものを心に抱き、ポールの野心は飽くことを知らなかった。
◆バンド名を「Bridges」とし、2本のギターとベース、ドラムだけではドアーズのような音楽を作れないため、キーボードプレイヤーを必要とした。
◆誰がグループを引っぱっていくか、マグスとポールの間の緊張は頂点に達した。マグスは長い間フロントマンであったが、マグスの声変わりを機に、もっと深くより豊かな声を持っていたポールはどんどんとヴォーカルを引き継いでいった。そしてついにマグスをヴォーカルのマイクから引き離し、ジャンボオルガンの奥へと追いやった。マグスは新しい楽器を驚くべき速さでマスターし、マグスの家の地下からは、典型的なBridgesのサウンドが流れた。
◆マグスの隣人だったSvien Erichsenは1970年にドアーズの公演を見た熱狂的な音楽愛好家で、Bridgesの音楽を初めから気に入り、レコーディングの機材を地下室に運び込んだ。
◆学校の勉強よりも音楽が生活の大半を占めていた。
◆マグスは資金調達のため、Nora Breweriesの労働者として夜の仕事をした。疲れ果てて教室の床で眠ると、友人がコートをかけてくれた。何人かの先生はマグスに同情し、マグスのカリスマは起こるだろう問題から最悪の事態になることを避けてくれた。しかし初めてのガールフレンドだったMargretheは悩み、去ってしまった。
◆1978〜79年の冬、アマチュアバンドのためにNeuf城の地下とDovrehallen(オスロの小さいコンサートホール)がコンサート会場として解放された。BridgesはDovrehallenで演奏し、自分たちの音楽を外の世界に試し始めた。
◆Erik Haglienが去り、Aftenpostenに新しいドラマーの募集を出して、Oystein Jevanordが参加した。そしてついに、アルバムという夢を実現する時がくる。レコード会社が興味を持つとは頭から思っていなかったので、バイトで稼いだお金で安いスタジオを借りた。1980年の夏、オスロのNydalen、捨てられた工場の湿っぽい地下室に作られたOctoconと呼ばれるスタジオを、Bridgesは1日500クローネで使った。
◆BridgesはVakenattという自分たちのレコード会社を作りあげ、LPは『Fakkeltog』と命名された。アマチュアバンドが自己資金でLPをリリースするというのは、それだけでセンセーションであった。さらに変わっていたのは、2つの面を、The Oncoming of Night、The Oncoming of Day、The Oncomingの3つに分けたことだった。1000枚プレスされたが、アルバムは石のように沈んだ。ノルウェーの音楽関係者は自分たちの理解できないモノには冷たく、ほとんどのロック・ジャーナリストが「Bridges」の才能を理解できなかった。
◆アルバムに興味を持ってもらうため、オスロ中に自分たちのポスターを貼った。それは余りに強いのりを使ったために、数年後まで残っていたほどだった。販売方法もまた狡猾で、あるメンバーは店に行き、積極的に店主に尋ねた。「何故あの素晴らしいBridgesのアルバムを置いてないんだい?」その10分後に、父親から借りたスーツを着た販売担当が現れ、Vakenatt社の最新リリースLP、Bridegesの『Fakkeltog』を10枚差し出す。いくつかの店が実際に騙され、その数ヶ月後にLPはセール用の大箱に入れられた。
※参考『Så blåser det på jorden』『Boken om A-ha』他
a-ha結成
◆1982年の秋にオスロのいくつかのクラブに出入りしていれば、遅かれ早かれSouldier Blueを聞くことになったろう。そして注意深く観客を見れば、いつもステージ近くのテーブルに座り、熱心に聞いている2人の若者(ポールとマグス)を見付けることが出来たろう。2人はロンドンでの6ヶ月の滞在から、失望によって出来た心の傷を癒すため、泣く泣く帰ってきたのだ。
◆2人は初めてロンドンに行く時、モートンを誘った。モートンはマグスの家の地下室にマイクを置き、一緒に行くかどうかの気持ちが決まったら取りに来る、と告げた。しかしそれはモートンのマイクではなかったので、本当の持ち主が来て持って帰ってしまった。これは手違いだったのだが、マグスとポールはひどく失礼な断り方だと思い、その後モートンに連絡を取ることなく、ロンドンに出発してしまったのだ。
◆モートンがエーゲ海で陽に焼いていた間、ポールとマグスはオスロではつらい時を過ごしていた。ロンドンからの帰国は、ポールのプライドをいたく傷つけた。出発する前、すぐにしっぽを巻いて帰ってくるさ、とさんざん聞かされていたのだ。その通りだった。祖国の土を踏んだ時、ロンドンに帰りたいと思った。しかしマグスがそれを止めた。マグスも失望したが、ポールほどにはショックを受けていなかった。しばらくHeidiと一緒にいたかったし、マグスの楽観的本能は、モートンが遅かれ早かれ一緒にやるようになると告げていた。マグスはポールにもう少し待とうと説得した。マグスの直感は正しかった。1982年の9月14日、モートンの誕生日に、2人はモートンの誕生日を祝うため、ハルケット一家の元にやって来た。そして、新しいシンガーを歓迎した。
◆バンドに持っているものの全てを注ぎ込んだ。最初のロンドンでの失敗を繰り返さないためには、良いデモテープが必要だという結論に達した。しかしロンドンへ行く前に高いスタジオを借りて、なけなしのお金を使ってしまうのは、良い考えとは言えない。自分たちが今持っているもので、何とかしなくてはならない。
レコーディングの場所はすぐに見付かった。ポールの両親がDrammenから遠くないNærsnesの森に小さな小屋を買っていた。そこに3人は家とスタジオを準備した。モートンが古い4トラックTeac(※レコーディング用の機械?)を持ち込み、マグスはどうにかしてジュピター・シンセサイザーを借りてきた。これ以外は、ポールのギター・シンセサイザーといくつかのアコースティック・ギターだけだった。ドラムはDr. Rhythmというドラム・マシーンに任せた−唯一の利点は、本物のドラマーよりも食費が安上がりということだけだったが。
こうして録音された歌は、以前ポール、マグスそしてモートンがやっていたものとは異なっていた。キャッチーなメロディーで親しみやすく、しかし独創的な歌詞を持った純粋なポップス。Bridgesの混沌としたミニ・シンフォニーと詞は姿を消し、モートンのソウル・サウンドももうなかった。この新しいミュージックを直感的にお互いに見つけだした3人の喜びは、デモ・テープに素晴らしい力を与えた。ポール、マグス、モートンが一緒に作った曲は、予言的なタイトルの『Så blåser det på jorden(※だから地球に風は吹く)』である。
◆3人はとても上手くやっていたが、実世界に向き合わなければならない時、意欲的な音楽のアイデアはひどく妥協されていた。ある日、ポールとモートンが『Presenting Lily Mars』という悲劇的なバラードに取り組んでいた時、ポールは突然素晴らしいアレンジを思いついた。モートンがバイオリン奏者を探しに出掛けている間、ポールは熱心に自分のアイデアを紙に書き留めた。ところがモートンが連れてきたアマチュア・ミュージシャンたちは、ポールのなぐり書きを何も理解することが出来なかった。バイオリンは酢のように酸っぱい音を奏でた。ポールは自分の美しいアレンジが全く理解されないのを見て、すっかり落ち込み、部屋の隅に引きこもった。しかしモートンは方法を見付けた。自分の耳と感覚を使って、バイオリン奏者たちの正しい右の指ポジションをみつけ、フェルトペンで印をつけたのだ。もしこれで上手く出来なかったら、指を印に糊付けしてしまうぞ、とまでミュージシャンたちは言われた。それは悪ふざけだったが。
◆秋、a-haというグループ名が決まった。3人は誰もが簡単に分かってくれる国際的な名前が欲しかった。モートンがahaというまで、全く良い名前を思いつかなかった。モートンはポールのノートでこの言葉を見付け、バンド名に提案した。実際、これは歌詞の1部だったのだが、これは誰もが探していた名前だった。それでahaと決めた、発音問題の心配から、最終的な書き方は後で決めた。「モートンが僕のノートをあさっていたとは知らなかったな」ポールは名前の選択について、こんなドライなコメントをしている。
◆ロンドンへの旅費をかき集めるため、マグスは既に学校で働いていた。Heggedal小学校で代用教員をし、Drammenの学校では木工を教えた。モートンはDikemark病院で看護人としてシフト制で働いた。一方、ポールは自分の音楽と本に没頭し、Nærsnesの森の小屋でほとんど世捨て人のような生活をしていた。どんな家事1つするのも嫌悪した。もしあなたがそこで1杯のミルクを飲んだなら、1週間後に戻って来たとき、それは手つかずのまま置いてあったろう。皿を洗うことが絶対的に必要なことではないのに、何故洗うのか?
◆旅立ちの時が来た。8つの曲が最終的にレコーディングされていた。その中の1つは『Lesson One』で、3年後には『Take on Me』で世界中のチャートでトップとなる曲だった。
※参考『Så blåser det på jorden』『Boken om A-ha』他
