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詩を書けないシンガーと、歌を歌えない詩人 <Aftenposten 26/08/95>

訳:みこ

(このインタビューはノルウェー語記事をSabineさんが英訳したものを、さらに、みこが日本語に訳しました。英訳文中に一部、ノルウェー語のままの個所が残っていましたが、そこは日本語に訳していません。[ ]内の訳注はSabineさんの、文末の訳注はみこによるものです。)

モートン・ハルケットはこれまで作曲をしたことは無かった。Haavard Remはこれまで英語で詩を書いたことは無かった。しかし今、彼らはやり遂げた。その成果が二人のデビュー・アルバム、『Wild Seed』だ。

この共同作業は二人に強烈な印象を残した。

「僕らが初めて会ったのは、1992年のある冬の日の午後で、モートンの兄弟の家でだったよね」と、Haavard Remと話す。

「僕はそこにいた?」とモートンは確信が無い。

状況は非常に難しい。それでも、二人を一度に捕まえるのは思ったほど難しくはなかった。モートン・ハルケットはSoerlandに住んでいる祖母のところから、ストックホルム行きの飛行機に乗る妻と子供たちを空港に連れて行くところだ。彼は明日、ロンドンへ旅立つ。ギターを肩にし、動かない携帯電話を持ったモートンと会えるのは、今夜数時間だけ。彼は道端のソーセージ売りの屋台から電話をかけて、インタビューをするのだったらもう少し遅い時間にしないかと言ってきた。「8時から11時の間に会えない?」と彼は提案する。彼は決して時間に正確ではない。

Haavard Remは携帯電話を片手にビーチに寝そべっている。彼は奥さんと二人の子供を、ArendalからHukへ、海水浴に連れて来ている。彼は、今夜あるコンサート以外には何もすることがない。おまけに、モートンにインタビューをするのは夜中を過ぎてからが一番良いとHaavardは信じている。

「モートンの頭が一番冴えるのは夜の間だから」というのがHaavardの結論だ。

「いや、今からやろうよ!」とモートンは少し後に電話をしてきた。11時数分過ぎのことだ。モートンはHaavardと話したがっている。
「Haavardは今、Hukにいるんですよ」と私が言う。
「でも1時間前の約束だったよね!」とモートンは文句を言う。
「確かにそうなのですけど…」

どちらも大人である、この二人が一緒にCD作りをするために長い時間顔を合わせることができたと、どうしたら信じられるだろうか。詩人であり、思慮深さそのもののような人であり、文学においても実生活においても言葉を巧みに操り、自分自身については、携帯電話無しでは生活できない人間だと語るHaavard Remをつなぎとめることのできる物など何も無いことは、誰でも理解できる。彼は今ではほとんどポップスターのようだ。

モートン・ハルケットは自分の思う通りに物事をできるようになった。自分自身のソロ・キャリアをコントロールし、時間にいらいすることはあっても、他のものに煩わされることは無い。彼が詩人だといったら、信じる人もいるだろう。歌を歌えない詩人と詩を書けない歌手という、まるで似てない二人組はノアの箱舟の中でもなかなか見つかるまい。

「モートンは本を読んだことが無いんだよ」とHaavardが言う。

「Haavardは一曲だってメロディーを覚えていないんだよ」とモートンがからかう。

どちらの言うこともウソである。モートンは、哲学の試験勉強でもしてきたような話し方をする人だ。Haavardも、彼の詩のフレーズを音楽に乗せたかのように口ずさんでいる。しかし、どちらの言うこともある意味では正しい。文学の世界とは程遠いシンガーは、彼のために言葉を綴る人を見つけ、歌声を持たない詩人は、彼の詩の解説者を見つけたのだから。

つまり、どういうことなのだろうか?

「モートンは、僕の作ったメロディーに、この素晴らしい歌詞をつけてくれたってことだよ」とHaavardは皮肉っぽく言う。

「じゃあ、君は作曲を始めたの?」とモートンは、マジメくさった顔で聞く。

しかし、二人の話は真剣になった。a-haのフロントマンだが、これまでバンドの作詞にも作曲にも貢献してこなかったモートンは、特に真剣に話し始めた。彼は単なるシンガー以上のものになれたのだろうか?ソロ・アルバムに関して、彼は題材を探し求めていたが、同時にそれは自分自身を探すことでもあった。子供のときから、彼は楽器を弾いたことはなかった。音符を書いたり読んだりすることもなかった。しかし、レコード会社にとって、そんなことは問題ではなかった。ロンドンのワーナー・ブラザーズが彼と結んだ契約は、単なるポップ・シンガーとの契約だった。レコード会社が欲しかったのは、大ヒット作を生むことのできるモートンであり、モートン自身は卒業したつもりの時代、10年前に、女の子たちのアイドルだったモートンである。

モートンがやりたかったのは、もっと別のことだった。

「僕はもうすっかり大人になっていたんだよ」と彼は言う。「もっと昔に大人になっていなくてはならなかったのだけど。僕がコントロールできるものの手綱を締め、僕をコントロールしていたものからは自由になる必要があった。初め、僕はワーナーの期待に添ったアルバムをレコーディングした。一度全部完成している。でも僕自身は、そんなものは欲しくなかった。だから僕はまったく別のものを作らなければならなかった。少しずつ、僕は自分自身の曲、自分自身で書いた曲を出していった。レコード会社は、僕が作曲することには好意的だった。でも僕は、自分の好みに合わないようなポップミュージックのスタイルで、骨抜きの作品を作りたいわけじゃなかった。僕はこのレコードで、何も偽ることなく、できる限りのことをした。万が一、契約を遵守するようにせまられたときに、僕にとって、ある種の保険になるように。
でも、これはどこか別の場所で待ち構えている、僕にとっての挑戦になると確信していた。つまり、生き残るためには、レコード会社が新しいものの方がいいと言って、古いものを捨て去ってくれるようになること、レコード会社が嫌がるものを無理やりに押し付けるというのではなく、僕の音楽が彼らを納得させることができたから、彼らが僕の意見に賛成してくれるようになることが、僕には必要だったんだ」

「そのことにHaavardが果たした役割は?」

「彼はちょうど良い時に現れてくれた、僕に必要な火のような存在だよ。僕には誰か僕を研ぎ澄まさせてくれる人が必要だった。僕は行き詰まっていたから。僕は直感的に、僕には自分のしたいことができていないと感じていた。自分の中にその力があることは分かっていたけれど、それを引き出すことができるのはHaavardだけで、彼のおかげで今の道をたどることができるようになった。僕らが一緒にやりとげたことは、僕自身アーティストとしてのアイデンティティを確立するために役に立っている」

彼は作曲を始める前に、弦楽器の演奏について一から学ばなくてはならなかった。

「それがたまたまギターだったんだよ。子供の時に、ピアノの前に座って、新しい曲を作っていたことを覚えている。でも、先生の前に行くときになると、完全に忘れてしまっているんだよ。[Det var doedt i aatte aar, jeg lurte henne trill rundt, fordi jeg husket hva hun haddle spilt.]」

おそらくはHaavard Remの言うように、「モートンのエゴは大きすぎるから、誰の目にも見えない」のだろう。

2年前にモートンが読んだことのない詩を、これまで聞いたことのない曲に合わせて歌うためにスタジオへ入ったときは、Remがモートンと知り合うのに十分な時間は時間は無かった。Remの選んだ詩を基に作られた、『Poetenes Evangelium』のレコーディングは、ほんの一瞬のひらめきによって生まれたものだ。このアルバムは大成功というほどでもなかったが、後にビデオ撮影のためにイスラエ
ルへ向かう飛行機の中で、モートンはその時の状況は覚えていないけれど、モートン
とHaavardは出会ったのである。

[1993年10月末に、『Salome』と『Natten』(どちらも『Poetenes Evangelium』からの曲)の2曲のビデオがイスラエルで撮影された。この作品はノルウェーの映画館で、本編の前に短編映画として上映された。]

しかし、Haavardはこう言う。

「僕らはよく連絡を取ったよ。僕はモートンに僕の『Oevelser i grensesetting』[境界線を引く練習]の本をあげたんだ。これは、かなり宗教的でイデオロギー的なアプローチで書いた詩を集めたものだ。エルサレムに行った後、僕はイギリスにいるモートンにあと数冊の詩集を送った」

「いくつか、すごく変わった作品があったよ!」とモートンが横から割り込んできた。

「そうだね、しかしその年の冬、僕らはモルジブへ行って、帰国する飛行機の中で、僕は初めて英語で詩を書いた。2週間後、その詩のためのメロディーが僕のうちの留守電に入っていたよ」

「このことは詩人に何を与えてくれるでしょうか?」

「たくさんのことを与えてくれる。ヴェーゲラン(訳注1)はノルウェーの詩人は、まるで檻に閉じ込められた鷲のように、自らの言葉によって繋がれてしまっていると言っている。これが理由だったんだよ。人生には、おそらく5回か6回くらい素晴らしい瞬間、、読者が詩人と同じようにその瞬間を体験できるような瞬間がある。そして、そんな瞬間に生まれた詩、自分自身の詩が、世界市場向けに選ばれた。英語で書くアーティストだからだ。僕はこれまでにレナード・コーエンのノルウェー語訳を発表したし、今度は自分自身の作品を英語で発表する。こういうのは好きだね」

「お金になるからですか?」

「多分ね。お金は僕が一番好きなことで生活する自由—何もしないでただ詩を書くだけの時間—を与えてくれるからね。ノルウェーのアーティストの考え方にはどこか悲劇的なところがある。アーティストとして成長することと、このような小さな市場で生き残ることの両立はできないから。Jahn Teigen(訳注2)はノルウェーの環境から離れれば、新しい方面へもっと才能を伸ばすことができたはずだし、Jan Garbarek(訳注3)は、もし世界中の観客に聞いてもらうことができなければ、アーティストとして行き詰まっていただろう。僕達の場合、モートンと僕は二つの違った側面を持っている。モートンは、表面的な、外の世界へ向けた物事では多くのことを成し遂げてきたが、アーティストとして認められてはいない。僕はその反対で、なんとか詩を書いて来たけれども、人に知られてはいなかった。だからここで僕達はお互いに交換しあったわけだ」

しかし、彼らはどういうふうに、共同作業をしてきたんだろうか?

「僕らはいつもお互いを批判しあっているよ」と、作曲家は、きっぱりと言う。

「物事をスムーズにするためだと言ってほしいね」と詩人。

「君の何が問題か分かっている?」とモートンはHaavardに言う。「君はうまいこと物事を変えてしまうくせに、皆がそれに気づく前に、それを全部やめてしまう」

「それは、僕は自分の手を使って仕事をしているからだよ」とHaavardは答える。

「そう、でも君の持ち味は、詩に付き物の女性的な側面に、男性的な表現を与えることができるということだよ」

「それじゃ、モートン・ハルケットの持ち味とは何でしょうか?」

「モートンは、クリフ・リチャードでありボブ・ディランであることができる。[men ikke er noen av delene I et uttrykk som allikevel er en slags blanding]」とHaavard Remは言う。

そして、作曲家はギターを手にとり、詩人は携帯電話を持って、それぞれのうちへ夜道を帰っていった。

『Wild Seed』発売

今夜、モートン・ハルケットはNRK放送のMomardeket(訳注4)で演奏します。またアルバム『Wild Seed』は9月4日に発売されます。シングル『A Kind of Christmas Card』は数週間前に発売されましたが、ノルウェーチャート1位の地位は頑として動きません。イギリスでの盛り上がりはそれほどではありません。これからの数週間、全面的なプロモ・ツアーが行なわれ、テレビ・ラジオへの出演や、マスコミとのインタビューも予定されています。Momarkedet出演の後、彼はロンドンへ、その後メキシコへ行き、またロンドンへ戻り、ドイツへ、そしてその他ヨーロッパ各地を回ります。もしこのアルバムの「離陸」がうまくいけば、スタジオ・ミュージシャンの中から、ツアーのためのバンドが結成されることになります。


訳注
1.ヴェーゲラン 19世紀のノルウェーの詩人。
2.Jahn Teigen ノルウェーのシンガー。ノルウェー国内で活動。
3.Jan Garbarek ノルウェー出身で世界的に有名なサックス奏者。2001年のノーベルコンサートにも出演。
4.赤十字支援のためのライブ・コンサート

(転載許可確認済)Thanks to memorialbeach.com

2000-05-10 | EDIT
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